ブログと身体

自分がブログに何かを書くとき、それは「私が」書くわけだが、この「私」というものに、どれだけの重さがかかっているか、ということを考える。
ぼくの場合、あまりかかっていない場合が多いのは、それをしないでもやっていける、ある種特権的な位置からものを言っている(書いている)ということだろう。
これは、「匿名で書いてる」とか、そういうことではない。また書いてる内容、話題とか題材ということとも違うし、文章の質とも違う。少なくとも、そのどれかに還元できない。
そうしたことの如何に関わらず、「私」をさらしてブログを書いている人というのが、たしかにいて、そういう人が、そのことのゆえに深く傷つく、という場合があるのだ、きっと。
そういう場所に立ったことのない自分は、恥ずかしいことである。


ブログに限らず、どういう場においても、「私」をむき出しにして差し出しているような人というのはいるものだ。「私」という代わりに、「身体」という言葉を使った方がいいかもしれない。
多くの場合、そういう人は、他人の視線や感情や言葉を過剰にひきつけてしまい、ひどく傷つくことになる。そういう人を見ていると、ぼく自身は、「とてもかなわない」と思い、かなわないことを認めてしまうと自分が苦しくなるから、否認するために反発しようとも思い、でもそうもしきれず、やはり尊敬の気持ちは抱くものである。
そういう狭い小さい自分の枠を越えようとして葛藤するところに、きっと何かが生まれる。


できるだけ、自分の「身体」を差し出して書くということ、人に対するということ、それはいつもできるというものではない。
休息や距離を、人間の身体は必要とする。
しかし、そうした基本の態度を忘れないこと自体は、やはり尊い


身体だから、これは他人との比較の問題ではない。
さまざまな優劣に関係なく、「私」が、「あなた」に代わって何かを言うことは出来ない。
だが同時に、「すべての人の発言はかけがえがない」ということとも、少し違う。
さまざまな関わりのなかでこそ輝く、その人の、他人との優劣とは無縁な、独自の輝きというものがあり、その人の「仕事」の価値というものがある。


kmizusawaさんの言葉には、そういうことを感じさせる力があったと思う。
そしてぼく自身は、もっと自分の「私」に、身体に近いところで、この場所に言葉を書きつけていきたいと、最近とくに思っている。