自由は誰のものか

先日風邪を引いていたときに咳き込みが激しくて耳の具合がおかしくなり、聞こえにくい状態が続いている。


慢性的になる前に医者に行けと言ってくれる人もいるのだが、それでもなかなか医者に行かない理由は、元々病院が苦手というばかりでなく、困ったことには、この「ちょっと聞こえにくい」という程度の状態は、慣れてくると幾分心地よく感じられるからでもある。
つまり、耳から入ってくる情報の総量が少なくなるため、本を読んでいるときや、自分の考え・情緒・妄想といったものに耽っていたいときには、たいへん集中しやすいのだ。
そういう「居心地のよさ」があるために、あえて嫌な病院に行って診てもらおうとしない。
これはサルトル風に言うなら、「一時的で軽い難聴」という自分の状態(事実性)に安住して、「医者に行って治療する」という投企(目的にもとづいた行動)を行わないこと、と表現できるだろうか。


だが、これはサルトルの書いていることで最も特徴的であり、同時にとても分かりにくい点でもあるのだが、サルトルは、何らかの目的に向って、自分が即自的に存在している(規定され、捕らわれている)状態から身を引き離して行動することだけを、「投企」と呼んでいるのではない。
自分のそうした状態(事実性)に捕らわれたまま安住していることもまた、自由によるひとつの選択であり、投企なのだと、サルトルは考えてるようなのである。
彼が例に挙げているのは、友人たちとハイキングをしていて、疲労のあまり歩くことを放棄して道端に座り込んでしまうという行動(選択)である。
それは、(目的に向って)歩き続けるという行動の放棄であり、むしろ「行動しないこと」の選択であるといえるが、それもまた私の自由による選択である。
歩き続けることが、(目的地への到達による)達成・征服・「我有化」といった目的に向っての「投企」であるとすれば、一方その放棄(降りること)もまた、「逃亡」という、そして『(自分の肉体の)事実性に身を委ねること』(そういう仕方で世界を「我有化」すること)という目的に向っての、私の自由な選択なのだと、サルトルは言うのである。
征服や達成や勝利に向って「戦い続けること」「頑張り続けること」を選ぶのも、そこから「降りる」のを選ぶのも、いずれも私の自由な選択(投企)であること(「我有化」への企てであること)に関しては、したがってそこから私の責任が生じることにおいては同等である、というわけだ。

対自は、自由な自己投企として、魔術的実存もしくは理性的実存を、自己に与えるのでなければならない。対自は、そのいずれについても、みずから責任者である。(中略)私の《ありかた》は、いずれもすべて、自由をあらわにする。(ちくま学芸文庫版『存在と無』巻3 松浪信三郎訳 p050)


これはなにやら、自己責任論を思わせるような言葉ではある。
たしかにサルトルの思想は、「自由の思想」(自由主義)であることは間違いないので、そこに似たニュアンスが出てくることは当然かも知れない。
だが、その意味するところをもっと考えてみよう。
たとえば、日本が軍国主義による戦争に突入していったとき、それに抵抗するか賛同もしくは従属するかの選択は、誰にとっても自由であった。また、兵士として戦場で、敵兵や敵国の市民に向って銃を発射することは、それが命令による行動であり、また「ヤラナケレバヤラレル」という状況下であったとしても、それは自由による選択の結果に他ならないと、サルトルは言うわけである。

われわれが拷問に屈するのは、自由によってである。(p241)


私は、戦時中私が軍国主義ファシズムに抵抗しないという選択をしたことについて、また戦場で「やむを得ず」銃を発射するという選択をしたことについて責任を担う。
別の例をあげれば、私はなんらかの不可抗力的な事情により、競争社会から「降りる」という選択をしたことについて、あるいは「ひきこもる」という選択をしたことについて、責任を負う。
サルトルは、この全ての状況において「自由」(な選択)を見出し、したがってそこに何らかの責任が生じるということを、いわば「肯定」するのだ。
私は国家の戦争や、そのなかで行われた私の殺人や、また私の退行的な社会的生存といったことの全てを、あるいはまた私の身体的な生のあり方のすべてを、
その自由と責任のなかに包含する。
それらはすべて、私の自由な選択の結果であり、私の行為であり、したがって何らかの責任をとらねばならない事柄である。


これは、過酷な論理のようにみえる。
「そうせざるをえない」という状況、すなわち、選択の結果発生する責任を免除されるべき状況というものが、ありうるのではないか?


だが、サルトルがこのようなことを言うのは、彼が自由を、宿命のように人間にとりついている、いわば個人の人格(ペルソナ、属性)よりも大きなものとして考えているからではないかと思う。
人間には、自由な選択を行わない自由はない、人間は自由であるべく呪われている、という風に彼は言う。
この意味するところは、ぼくにはまだ十分に分からないけれども、ポイントは、彼が言っている自由とは、いったい誰の、もしくは何の自由なのか(もしそういう言い方が可能だとすれば)、ということではないか。
それは、私という行動の主体、意識の持ち主の自由なのか、あるいはそこに限定されない何か、例えば「私的所有」という場合の「私」という領域を越えるようなものに関わる「自由」のことなのか。


なるほどサルトルは、この文庫版の3巻の前半部分において、さまざまな事実性、たとえば過去(それに歴史的事実)や、「人間」「民族」「家族」といった集団的な帰属や、言語のような構造や、社会的なルール・制度や、そういったものに「意味」を付与することが出来るのは、ひとり個人としての私の自由な選択にもとづく行動のみである、ただし、そうした事実性(状況)のもとに置かれているという事実を出発点及び限界として持つかぎりでの私の選択・行動のみである、ということを繰り返し強調している。
それは例えば、次のような意味である。

われわれが別の状態に思いおよぶことができたときから出発して、はじめて、ひとつの新たな光がわれわれの苦痛や苦悩のうえに差し込み、われわれはそれらの苦しみが耐えがたいものであることを決定するのである。(p023)

労働者の苦しみが、彼にとって、許しがたいものと見えるのは、彼が自分の苦しみを変えようと企てるにいたったときにおいてである。(p024)


私がどれほど不当で不遇な状況に置かれていたとしても、たとえば「革命」や「解放」という目的がそこに置かれていないなら、つまりはそこに向って私が行動するべき目標が、そもそも現実にありえないものとして思考から除外されてさえいるような状態であるなら、私はこの現在の状況(事実性)を不当なもの、怒りや悲しみの対象として見出すことさえない。それは、ただあるがままの(苦悩に満ちてはいるが非措定的な)生と世界の現実であるにすぎない。
人間が「自由」において見出す、そして行動への投企において導入される「目的」の光が、「このようでない現実」としての未来の方から差し込んでくる「非存在(無)の光」だけが、現実に意味を付与し、この状況を意味あるものして私の前に顕示する。


だが、その場合の「自由」とはどういう水準において捉えられたものであるのか、言い換えれば、選択や投企を行うその「私」とは、どんな内実を持つ概念なのか、ということが重要だろう。
「私の自由」という場合*1、この「私」とはどんなものなのか。
たとえば、こういう風に書いているところがある。

反省的意識としての資格においては、意志は動因としてのいつわりの心的対象を自己欺瞞的に構成するのに反して、非反省的意識、自己(についての)非措定的な意識という資格においては、意志は、自己欺瞞的であること(についての)意識であり、したがって対自によって追求される根本的な企て(についての)意識である。(p117〜118)


つまりは、自己欺瞞もまた私の根本的な投企の結果であるわけだが、ここで重要なのは、それがそのように言われることができるのは、「非反省的意識」「非措定的な」自己意識のレベルにおいてである、とされていることだろう。
このレベルは、フロイト流の精神分析でいう「無意識」に相当するものだろうが、サルトルはそこに、「根本的な投企」を関係付けているのだ。
つまり、選択を行う主体は、すなわち「自由である」のは、もはや意識や人格(ペルソナ、属性)の持ち主としての、「私」ではないことになる。
意識や人格だけが、またそれに統御された行動だけが「自由」であるわけではなく、(私の)自由はもっと根本的なものにこそ関わる。


そういうところに、サルトルの「自由」と「責任」をめぐる議論の今日的な可能性、またそれと「非人格的」という言葉との関連のありかも、探れるのではないかと思う。

*1:サルトルは『実感されえないもの』(p248)としての私の対他存在を引き受ける、という風に言っているが。