「でも中国が、・・・」という言い訳について

先日のエントリーに、例の常連コメンテーター氏が、また色々と批判を書いてきてて、それによると、日本がもっと再分配や過剰な労働の抑制に配慮した仕組みに転換していこうとすると、たいへんな結果を招くのだそうだ。
彼の言い分を聞いてみよう。

適度なラインがどこにあるかという認識が相違しているということで、日本社会や僕はラインが今現在、あるいはそれ以上であるという立場で、産業発展を優先し、逆に管理人氏はもう少し下のところに適度ラインをおいているということでしょう。


今のレベルを下げたとしたら、たしかに今まで困ってた人で困らなくなった人はふえるかもしれないが、今まで困ってなかった人が困るようになってしまい、その数は前者をうわまわるだろう・・というのが産業界や今の日本のおおかたのシンクタンや私のような人間の持論です。


「日本社会や僕は」、そういう認識だそうである。


で、そうなる究極の理由はというと、「中国」の存在らしい。

なぜ今のレベルをさげたら今以上の人数の人たちががこまるのか・・


製品開発や根下げは国際競争なので、日本だけ下げても中国がその低下分をカバーしてしまうから


別にこの人に限らず、新自由主義的な経済や社会のあり方を肯定しようとする日本の論者は、たいてい中国の存在を最終的な拠り所にするようだ。こうした主張をしたい人たち、自称「現実主義的」な人たちにとっては、中国さま様というところだろう。


実際のところ、この人たちの主張にどれだけの妥当性があるのかは分からない。
しかし、あるべき社会の仕組みを考えようというときに、「中国があるから」が現在の仕組みを変えないための最終的な拠り所として持ち出されるというのは、なんともおかしな感じである。ここで「現実」の象徴のように持ち出される「中国」って、なんなのだろう?


こういう主張をしたがる人たちの言い分をマイルドに言い換えれば、こういうことであろう。


たしかに、あなたがおっしゃるような世の中になればいいですね。私も理想としては、そうあるべきだと思います。でも、現実はそう甘くはないのですよ。なにしろ、中国という国が日本の近傍に在って、日本以上に法外な利益本位で競争を仕掛けてくるのですから。日本が、ちょっと手綱を緩めれば、恐ろしい貧困や破局が待っています。


中国がそういう国のあり方なら、それを改めさせて競争を緩和することを考えればいいと思う。
ぼくも、中国の経済発展の速度と質、そしてその国勢の拡大は、日本にとっての利害だけでなく、周辺地域にとっても、また中国の人たち自身にとっても、非常に大きな問題をはらむものだから、国際的な枠組みによってでも、これに何らかの歯止めをかけるべきであるという考えだ。
だが、そういう発想は、この人たちにはまるでないようなのだ。
それどころか、この人たちは、日本以上の格差社会、経済偏重の社会になっているといわれる中国の国のあり方については、別に批判するつもりがないようなのである。
それはそうだろう。そこを問題にすれば、結局は自分の国の社会のあり方も「批判の対象」として考えざるをえなくなり、都合が悪くなるから黙認しようということである。


そこからも分かるのは、新自由主義的な論者たちにとって、「中国」とは、自分たちの論理に合うように、その現実性を取捨選択して持ち出せる、都合のいい存在でしかない、ということだ。
「現実は甘くない」、つまり、「現状の変革は無理である」ということの言い訳の材料として「中国」を引き合いに出すわけだが、それは実は働きかけの対象となりうる、現実の存在としての「中国」ではなく、自分たちの言い分を正当化するための抽象物であるに過ぎないのである。


結局、この人たちの主目的は、自分たちが信じ、いま現在それに適合している現実の仕組みを変更不可能なものであると決めつけ、それを変える意志や勇気をもたない自分たちの態度を正当化しようということである。
「中国」の存在は、そのために都合よく呼び出されてくる抽象物のようなもので、彼らが引き合いに出してくるその国土には、生きた人間は一人も住んでいないのだ。彼らの考え論じる「日本」の国土にも、誰も生きて生活する人間はいないように。


「あるべき社会」を作るために、数値上で予測されるリスクがあっても、自分たちの社会から変革をはじめ、中国など周囲の社会にも影響を与えていって、国際社会全体の仕組みを変えることにつなげようというような、前向きな気持ちにはならないものか?
現実というのは、そういうふうに理想に向って働きかけるべき、変更可能な対象として置かれるときに、はじめて生きた意味を持つものだと思うが。


「リスクがあっても」と、上に書いた。
理想の名の下に、この社会が困窮に陥り、多大な被害者を出してもいいのか?それでは、社会主義国の独裁的な指導者や官僚たちと同じではないか、と言われるかもしれない。
だが、数値計算により設定された「よりよき未来」のために、今現実に数多くの犠牲者を出し、それを黙認することが正当化されつつあるのは、どんな経済・社会の体制なのか?新自由主義の社会こそ、現在におけるこうした悪しき官僚主義的な悪の代表ではないのか?
そうした、数値化された未来の名の下に、多くの犠牲者を出すことが黙認されるような社会と世界のあり方を変えるために、われわれは必要なリスクを、可能性を忌避するべきではないと思うのだ。