『西鶴一代女』

パリーグの試合は、開幕してからひどいときには観客数が一万人を切る試合もあるようだが、そんななか楽天日本ハムの試合は、なんと平日のデーゲーム。
そんなので客が入るのかと思ってたが、考えると、ドームではない仙台の球場で、この時期のナイターでは寒すぎるよな。そこに気がついて納得した。
今日は何人ぐらい入ったんだろう?


さて、ここから本題。
巨匠溝口健二の代表作のひとつとされる『西鶴一代女』を、九条のシネヌーヴォで見た。
大阪の九条といえば、この映画の内容ともだぶる歴史をもち、またそう言えば楽天の選手たちともまったく縁がないわけではない場所だが、まあそういう話はいいだろう。
この映画、やや長いが、とても面白い映画だと思った。


時代は江戸時代のようだ。
主人公のお春は、50歳ぐらいになって、若い女性であるように装って街路で売春をしている女性である。もともとは武士の家の娘で、公家の屋敷のようなところに仕えていたが、ある男性との恋愛がきっかけになって次第に零落し(いわゆる「身を持ち崩し」)、とうとうこのような境遇になった。
この女性の半生が、大部分は回想の形で描かれる。
こうした女性の一代記のような物語は、日本の物語・説話や伝統芸能に、昔から数多く見られるものだ。多くは、「こういうふうな生き方をすると、自業自得でこんな悲惨な末路になりますよ」という仏教的な教訓(今では、「自己責任」と呼ぶ)を示すものとして語られる。同時に、その裏面では、社会の封建的な掟や、権力者、親、夫などに苦しめられる弱いかわいそうな存在としての「女」の生涯を切々と描くものでもある。
この物語も、大枠ではそうなのだが、それとは違ったニュアンスも持っている。それが、この作品の魅力であり、たぶん西鶴の文学の魅力でもあるのだろう。


お春は、女性、そして娘を、性欲や金銭欲、その他の社会的な欲望(「跡取りの子どもが欲しい」とか「世間的な見栄をよくしたい」とかいう)を満たすための「物」「財産」「手段」のようにしか見ない、親や男性たちの、また当時の社会全体の仕組みの被害者として描かれている。
これだけなら、一種の社会派のドラマ、もしくは悲しい女の一生を描いた物語ということになるだろうが、この映画では同時にお春は、たくましくその理不尽さに抗い周りの人間たちを翻弄していく生命力に溢れた女性としても描かれている。
この、両義的な描き方が面白い。
お春は、運命や世間に苦しめられるだけでなく、ときに男たちを誘惑したり魅了し、周囲の男や女たちの人生を狂わせる「力」をもった存在としても描かれるのである。
お春の存在の、とくに性的な激しさに触れることで、男たちも女たちも、それまでまとっていた「秩序」の仮面のようなものがはがされ、ひどく取り乱したり、道を踏み外してしまったりする。そういう意味では、彼女は一種の「加害者」、ないしは「破壊者」である。少なくとも、「誘惑者」(ルネ・シェレール)だ。
この要素が強調されるとき、作品は、悲劇というよりもコメディの色を濃くする。
だが、その彼女の激しさの根底にあるものは、おそらくひとつには上に書いたような、社会や親や男たちの、ひたすら彼女を「物」としてしか見ないような眼差しであり行動だったのだろうということが、映画から伝わってくる。
いわば、そうした理不尽な暴力(迫害)が、彼女の生きる「力」の性質を、そのような破壊的・暴力的な傾向へと捻じ曲げてしまったのである。


映画は、このお春という女性の破壊的な生の「力」を、「物」のようにしか見なされないという苦しみを被ってきたことの結果として、だがたんなる「被害者」という受身の存在ではない力強さをはらんだものとして、公平に冷徹に描くことに成功していると思う。
大名行列の光景を見て、生き別れになった息子(ある大名に「跡取り」として産まされる)のことを思い出し、お春が寺の壁の下にしゃがみこんだまま泣き崩れる場面は、鬼気迫る迫力があった。


主演の田中絹代は、気性が激しく、気位が高くてどこか孤立してしまいがちなところのあるヒロインを演じて、まさにはまり役という感じだ。
助演では、父親を演じた菅井一郎と、沢村貞子がとくに素晴らしい。


去年公開された日本映画では、『嫌われ松子の一生』が、同様の題材をよく似た描き方で扱っていた。「松子」は、こうしてみると、日本映画の「王道」につながる作品といえるのかもしれない。
また、やはり去年話題になったドキュメンタリー『ヨコハマ・メリー』の主人公の姿を、思い浮かべる人もあるだろう。
そして、日本以外でも、たとえばジュリエッタ・マシーナが主演した何本かのフェリーニの作品にも、共通したところのある女性像が描かれていたのではないかと思う。


インターネットで散見したなかでは、下の記事が、作品の雰囲気をよく伝えていると思った。読ませる、見事な文章です。

『面白い映画とつまらない映画はどこが違うのだろう?』