ダメなものはダメと言え

最近、韓国に嫁いだ日本人女性の苦労や頑張りの様子を描いたドキュメント風のテレビ番組をいくつか見た。
日本とは文化や伝統が違うので、日本人同士の結婚とはすごく違う苦労がある、というような内容である。
どうも見ていて、腹が立って仕方がないことがある。


それは、嫁いだ先の夫の家族、とくに母親などが、生まれてくる子どもが男か女かをたいへん気にして、男であると分かると、露骨に喜ぶという話が出てくることだ。
息子である夫も、それを当たり前のように受取ってるように見えるし、表面上は仕方のないことだろうがお嫁さん本人もそれに従ってるように見える。
まあ、本人たちのほんとの気持ちまでは分からないから立ち入れないが、ぼくは見ていて非常に感じが悪い。
ありきたりな言い方だが、生まれてくる命が、男か女かで、何の区別があるのかというのだ。


それは、そういう社会の伝統だから仕方ない、もしくは尊重すべきだといわれるかもしれない。
しかし、ことは人の生命の価値に関わるようなことだ。
もしそれを「文化的な傾向」と呼ぶとすれば、それは元来批判されなくてはならないものだと思う。


何より腹が立つのは、日本のテレビ局やタレントが、それにまったく疑問を呈したり、距離を置いて伝えるのではなく、さも良いことのように映していることである。
これは、韓国の社会の一番悪い面だと思う。なぜ、そこをちゃんと批判しないのか。少なくとも、「これはちょっと」という距離を置いた伝え方をしないのか。
「そんなことは、日本でもあることじゃないか」と、きっと思う人があるだろう。
だからこそ、言っているのだ。


まず、日本でもあることだからといって、韓国でも行われているよくないことを批判せずにすませてよい理由にはならない。
むしろ、逆だろう。
そして実際、日本のテレビ局がそれを批判しないのは、日本の社会でも同様のことが、天皇家をはじめてとしてまかり通っているからだ。
子どもが男か女かで、生命の価値に差をつけるような考え方は、天皇制をもつ日本の社会の根にあるものであり、その価値観を一人一人が内面化することが、国や権力を持つ者にとっては望ましいのだろう。
そうした価値観をもつことの正当性、そうした価値観は日本だけの特殊なものではなく、それに従うことは「異文化に寛容であること」や「隣国と仲良くすること」と、なんら矛盾しないのだということを人々に刷り込むために、あのような報道はなされているのだ。
ぼくは、そう勘ぐる。


韓国の因習的な家族・性についての考え方を表わす光景は、その意図のために利用され、批判されることなく、むしろ微笑ましいものとして称揚されるかのように、テレビで流される。
もちろん、韓国社会のすべてがそうであるわけはないのだが、たしかにその傾向が強いことは事実だろうし、そして日本のマスコミはそれだけをとりあげて強調し、都合よく報じ続けるのである。
こうした「他の文化への理解」は、差別や対立をなくすためには、基本的に役に立たないものだ。むしろ、それは互いの社会の悪い面を残すことで、そうした部分が残った方が都合のよい、両国の一部の人たちにだけ寄与するものである*1


大切な隣国の人々だからこそ、よくないことはよくないことだと、自分たち自身にも返ってくる覚悟をもって、はっきり言うべきである。
それがほんとうの深い関わりを作ること、相互の信頼と和解を実現するための道だと思う。


まあ、ぼくも面と向ってはなかなか言えないけど。
あんまり腹が立ったので、ここに書いてしまった。

*1:その証拠にというか、「韓国に嫁いだ日本人女性」の日常を友好の証しみたいに伝える日本のテレビ局は、石原の差別発言などに対してはまったく寛容である。