natamaru123氏への返答に関して

『働くことと生きること』と題した、先日の拙エントリーに、予想通りといおうか、このブログの読者にはおなじみのid:natamaru123氏から批判のコメントが多数寄せられた。
それについて、先ほど、同エントリーのコメント欄に返答を書いたので、全文はそちらを見てもらえればいいのだが、とくに注意して読んでもらいたいのは終わりの方の箇所である。

ていうか、そもそも「奪う」とか「収奪」という概念に対する疑問が、このエントリーのテーマだったんだけど、そこは全然読み取ってもらえなかった、ということだよなあ。
ここでのぼくの基本的な考えは、「収奪」ということがあったとしても、それが根本的な問題ではないはずだ、ということ。
別の言い方をするなら、かりにその社会に「収奪」がまったくなかったとしても、そこで飢えや貧しさや絶望や過労のために死んでいく人がいて、それが放置されているのなら、その社会の仕組みは間違っている、ということです。


ひとつ思うのは、「もらう」という捉え方や、「分配」ということの価値を認めない、あなたのような考え方を推し進めていくと(あなたは極端な例だろうけど)、あなたの言ってるようなひどく偏狭で自他の生存に否定的な考えにたどり着くのではないか、ということです。


引用したこのぼくの文章の、前段については、当該エントリーでぼくが「収奪」とか「搾取」ということに関して言おうとしたことのポイントをまとめれば、こうなるということである。
それでも、過去や現在において、明らかに収奪と呼ぶべき出来事があり、それを収奪として追求していくことに意味のある、いや断然そうすべきであると思える事柄が多くあるではないかと、反論したい人があるだろう。
ぼくも、それはよく分かるのだが、それら個々のケースについては、今後別に考えを書いていこうと思う。


後段の方だが、これはちょっと言葉の足りない変な文章になってるけど、ここはnatamaru氏以外の人たちによく考えてもらいたい箇所なのである。
つまり、ぼくがあのエントリーで書いたように、すべての人に、資格や条件をつけないで、人間らしく生きるために必要な物品や財を分配するということを基本理念としないのであれば、つまり「〜であるから」ということを理由にそうした基本的な分配からある人たちを除外したり、資格を低い程度にしかもたない人たちを作ってしまうなら、それが一見どれほど妥当な基準に思えても、結局はnatamaru氏の主張に見られるような、自他の生存に対する否定的・差別的なイデオロギーへと帰着せざるをえないはずだ、ということである。
だから、natamaru氏の言っていることは、たしかに暴論だけれども(ぼくはそう思う)、この社会で当たり前のように流通し、ほとんどの人たちが(ぼく自身も含む)当たり前のようにそれに従っている、人間の生とその価値についての考え(イデオロギー)を、一種純粋な形で表わしたものに他ならない、ということである。
だからこそ、ぼくたちは、彼のような言説をいわば自分の内なるものとして受け止めて、それを乗り越えていかなくてはいけない、と思うのだ。


まあ、といっても、この人個人とは、これ以上あまり向き合いたくはないけどね。