『労働ダンピング』を読んで

話題になっている本だが、あまり要約のようなことは書けないので、主に感想だけを書くことになると思う。

労働ダンピング―雇用の多様化の果てに (岩波新書)

労働ダンピング―雇用の多様化の果てに (岩波新書)


著者は、非正規雇用正規雇用の双方の労働者が置かれている現状を、「労働の商取引化」とか「雇用の融解現象」という言葉で表現する。著者のいう「労働のダンピング」が、労働者全体の生活と権利、そして身心の健康や生命まで脅かしている現状への警鐘として、本書は書かれている。
この本には、その生々しい実例や、詳細な分析が書かれていて圧倒されるほどだ。
ここに引かれているような労働現場の実情というのは、ぼく自身にとっても身近なことなのだが、このように書かれているものを読んで、その実情のひどさがはじめて分かるというところがある。つまり、そうした日常を生きていいても、突然首になったり大怪我をしたりしない限り、そんなに深刻に感じないということがあるわけだ。
だがよく考えると、自分だけではなく、人間の体や心が置かれている状態として、この労働条件なり賃金体系なりは、やはりひどいものなのである。
それを、そんなに深刻に感じることなく生きてるというのは、それ自体ひどく抑圧的な状態、人間に対する抑圧を内面化してしまってる状態ではないかと思う。
この本を読んで、まず、そういうことを思った。

著者の重要な視点

そうした現在の社会のあり方を批判する著者のスタンスの特徴は、集約すると、労働システムに対するジェンダー的な視点の導入、ということに尽きると思われる。
「はじめに」で著者は、1986年に、労働者派遣法とともに男女雇用機会均等法が制定されるとき、「雇用における男女平等の実現のために、女性に関する労働規制をなくして男性なみに働けるようにするべきだ」という考え方に対して強い疑問を抱いたことを書いている。

女性に関する規制はなにも特別なものではなくて男女双方に適用されるべき普遍的な水準である。(中略)そのため青天井の残業が許されてしまう男性の労働時間規制こそが差別(男性差別)ではないのかという観点から、労働基準法規制緩和に反対したのだった。(p鄱)


こうした視点が、著者のなかで一貫しているものである。
はじめに書いたような、現在の労働者がおかれている深刻な状況を解消するためには、従来の正社員の働き方、つまり労働システムの「男性モデル」と呼ばれるものから、この社会が脱却することこそが肝心だ、というわけである。
著者によれば、

働き方の面で、改善されるべきは正規雇用である。(p138)


じつは日本の社会で正規雇用労働者が当然のものとして受け入れてきた働き方こそが、「非人間的な扱われ方」だったのだと、著者は言う。
そのことは、男は会社での労働にすべてをささげ、女はそれを家で支える、というような枠組みと結びついている。それが、男女の賃金格差という日本の特殊な労働事情にも結びついていて、この要素を入れて考えなければ、日本における非正規雇用の問題の特異性は見えてこない、という話になっている(みたいだ)。


そこからの転換のビジョンは、『働き方のスタイルを男性モデルから女性モデルに切り替える』(p225)ことと表現されている。
つまり、職場での労働と家庭での生活、家事労働とを両立できるような「働き方のスタイル」が、すべての人にとって当たり前のものであるような社会こそが、人間が生きていくには望ましいのだ、というわけだ*1
そのためには、競争原理ではなく、雇用の安定と(労働時間の制限など)労働条件の整備こそが労働システムの基本となるべきだ、というふうな論旨なのだと思う。
ちょっと、まとめきれないんだけど(現物を読んでください)。


不満があるとすれば・・

概して、著者の言ってることはよく分かる。
だが、あえていちゃもんをつけるようなことを書くとすれば、こういうことがある。


たとえば著者は、問題解決の処方として、非正規雇用正規雇用化ということを明示している(p205以下)。
正規雇用について、著者は本書の初めの方で、それは必ずしもネガティブな労働形態ではないのだが、日本の不十分な法制度のもとでは、『ダンピング可能な低賃金不安定雇用として利用される』ことになっているのだと述べている(p46)。
つまり、非正規雇用が「低賃金不安定雇用」、「労働ダンピング」へと結びついてしまう大きな原因は、日本の法制度の不備にあるのであって、それが改善されるのなら非正規雇用という選択肢も本来は肯定されていい、と言ってるように読める。
だが、読み進めると著者は、「非正規雇用のメリット」とされているものは、結局正規雇用の非人間的な扱われ方の裏返しなのであり、正規雇用を「人間的」な労働条件、労働形態に変えていく(さきの「女性モデル」への転換と重なる)ことこそが大事なのだ、というふうに話を展開させているのである。
上に引用した138ページの一節に集約される認識である。
これは、上述したように、日本の現状では非正規雇用が、労働条件の全体的な悪化しかもたらさないような現実があるだけに、当然の論理と思えるかもしれない。


だが、正規雇用の「人間的な扱われ方」が確保される社会になれば、つまり「女性モデル」の社会システムが実現すれば、それですべての人が十分に満足して自分の生を生きられるようになるだろうか。
正規雇用化」を根本的な処方として提示する著者の考え方に、漠然と違和感をもつのは、そうしたところである。


社会がどのように改善されても、その作り上げられたシステムのなかでは生きられない人がいるはずだ。
それは、なんらかの事情で労働ができない、というような人の存在に限らず、そもそもシステムの外部にあるような人間の生、ということである。
「男性モデルから女性モデルへ」という「労働システムの転換」だけによっては解決されないものが、人間が生きていくことのなかにあるはずだが、そういうことへの顧慮が、どうもあまり感じられない気がした。
この本は、現在の労働システムをいかに人間的なものに変えていくかという、アクチュアルな課題について書かれた(たいへん優れた)本なので、そこから外れたことを求めるのは筋違いかもしれないが、ぼくが感じたのはそういうことである。


もう少しくわしく書いてみる。
たとえば、すべての働き手に利益を公正に還元させるシステムの必要性が、「おわりに」でも述べられている。
世界の現状を考えても、この主張自体は間違ってはいないだろう。
だが、人間が生きていることは、働き手であるかどうかということに集約されるものではない。社会から「働き手」であるとみなされなくても、人が生きている限りは、その人が最低限生活するための「利益の還元」、つまり分配は保障されなければならない*2
そういう認識を著者も持っているとは思うのだが、問題は「システム」という言葉を使ったときに、分配によって保障されるべき生の普遍性という現実が、見えにくくなるのではないか、ということである。
それは、労働と分配(つまり、生の基本的な条件)とを直接結び付けてしまう危険なイデオロギーを呼び込みかねない。
どうもそのことへの自覚があまりなくて、制度やシステムを理想的なものとして整備すれば、それですべて解決する、という論調みたいに思える。現状の制度・システムがあまりにもひどいから、それは仕方ないことかもしれないが。
一口にいうと、システムというものがもつ限界への自覚が、このシステムの議論には欠けているのではないかと思ったのだ。


どうもやっぱり、よくまとまらない。
あと、すごく重要なことが書いてある本だとは思うが、法律用語などが多くて、すごく読みづらかった。
もう少し多くの人に手早く読んでもらえるバージョンの本が書かれたらいいと思う。

*1:これは、こうした転換は普遍的に必要なことだが、日本の社会ではとりわけなされていない、ということでもあろう

*2:こうしたことは、ぼく自身、このブログをはじめてから、段々そのように考えられるようになってきた