チェーホフ・誘惑者としての「客」

チェーホフのいわゆる四大戯曲のうちの二つ、「かもめ」と「ワーニャ伯父さん」を読んだ。


かもめ・ワーニャ伯父さん (新潮文庫)

かもめ・ワーニャ伯父さん (新潮文庫)


どちらの作品でも、時代の激変にともなって人生への意味づけや秩序づけの根拠となるものを失い、その空虚さがもたらす苦しみを想像的に満たしてくれるような嫉妬や羨望といった情念のゲームに翻弄される、帝政末期ロシアの貴族階級、いわゆる「余計者」と呼ばれたような人たちの姿が描かれている。


読んでみて思うことは、これらの作品では、人々の安定した、しかし無為な日常を揺さぶり、その人たちの日々に破壊と啓示を同時にもたらして去っていく「客」の存在が、重要な役割を果たしているということである。
「かもめ」では、たとえば、チェーホフの作品によく登場するヒステリー的な性格造型がされている若いヒロインのニーナの存在が、そもそも男たちにとっては、この「誘惑者」的な機能を果たしているともとれるが、より明確なのは、そのニーナやトレープレフの人生に対して、作家トリゴーリンが果たすその破壊的な役割だろう。
意に反する形で、やがて自分が果たしてしまうことになるその役割を予見するかのように、かもめの屍骸を目にしたトリゴーリンは、ニーナに呟く。

ほんの短編ですがね、湖のほとりに、ちょうどあなたみたいな若い娘が、子供の時から住んでいる。鴎のように湖が好きで、鴎のように幸福で自由だ。ところが、ふとやってきた男が、その娘を見て、退屈まぎれに、娘を破滅させてしまう――ほら、この鴎のようにね。(p65〜66)


また、「ワーニャ伯父さん」では、田舎の屋敷を訪れ、滞在中に人々を怠惰と混乱のきわみに陥れた挙句に立ち去っていく、老教授の若く美しい妻エレーナに向って、残される登場人物の一人である医師アーストロフは、こう感慨をもらす。

(物思わしげに)まったくあなたという人は、根が実直な、いい人のようじゃあるけれど、そのくせなんだかこう、不思議なところのある人だなあ。現に、あなたがご亭主といっしょにここへ見えると、それまでせっせと働いて、その辺をごそごそやって、何かこう仕事らしいことをしていた連中が、忽ちみんな仕事をうっちゃらかして、まるひと夏というもの、ご主人の痛風だの、あなたのことだので、無我夢中になってしまうんだからなあ。あなたがた夫婦のぐうたらな暮らしぶりが、みんなにうつっちまったんだからなあ。(中略)まあ、こんな具合に、あなたがた夫婦という人は、どこへ行っても、そこの暮らしをめちゃめちゃにするんですねえ。(p228〜229)


こうした展開と台詞に焦点をあわせて考えてみると、チェーホフが、こうした破壊的な形で変化と啓示をもたらす登場人物、いわば「誘惑者」としての「客」たちの存在を、どのように見ていたのかということが、少しずつ見えてくるように思う。
「ワーニャ伯父さん」の最後で、やはり失意のうちに取り残されたソーニャが兄のワーニャに語りかける長い台詞、長い果てしない、空虚さと苦しみばかりの人生をひたすら耐え、あの世で報われることだけを信じて生き続け、人のために働き続けようという、宗教的な述懐は、明らかに、この破壊的な「客」の到来という事態を受けて行われているのだ。
こうした「客」の到来によってもたらされた「空虚」な生を、ひとつの啓示のようにとらえて、ひたすら耐えていくという態度、決意。
それはチェーホフの作品に多く示されているものだが、おそらくキリスト教的な思想でもある。


ルネ・シェレールは、パゾリーニの小説、映画『テオレマ』を論じた文章のなかで、預言者エレミアが誘惑者としての神ゆえにもたらされた苦渋を訴える言葉を引いたあと、パゾリーニの作品の中心となる思想について、こう書いていた。

その命題とはすなわち、客の到来は、そして客との肉の「交合」は、ひとりひとりの中で何かを破壊し、同時に何かを啓示するということである。(ルネ・シェレール著 安川慶治訳 『歓待のユートピア』p202)


また少し後のところで、こうも書いている。

このキリストは精神を失った教会を見捨て、ひとりひとりをその肉の孤独へと送り返す。存在に耐えかね、存在に苦悩する肉体、ただの叫びになるまで空虚になった肉体だ。(同上 p210)


誘惑者としての「客」たちによって、ブルジョワ的な自己の安定を破壊され、チェーホフの登場人物たちが「送り返される」苦悩、空虚、孤独とは、こういう質のものだったと考えられる。
つまり、彼の作品において、天国や未来社会(次の世代のロシア)という理念を信じて「人のために働く」ことが称揚されるとき、その力点は、それらの理念の実現可能性にあるのではなく、もたらされた「空虚」な生そのものを、誘惑する「客」(キリスト)によってもたらされた啓示として引き受け、生き抜くということにあったのだろう。


となると、怠惰や嫉妬によって特色づけられる「近代的」な社会性の空虚な空間を、チェーホフがたんに乗り越えるべき対象として、否定的に見ていたのかどうかということには疑問が生じる。
彼はむしろそこに、怠惰や嫉妬といった情念の否認によってもたらされる「近代」の充溢(透明性)に抵抗しながら、しかし「近代」という「客」の到来以前に回帰するのではない仕方で、開かれるべきもうひとつの空間の萌芽を見ようとしたのではなかったろうか。