立岩氏の思考の特徴と思われるもの

年末から少しずつ読みすすめてきた『自由の平等』(岩波書店)を、やっとひととおり読み終わった。
今日もまた、この本について書く。


読みながら、これはすごく大事な点だと思ったことのひとつは、つぎのことである。

一つの間違いは、差異によって他者を規定しようとすることだ。二人の人に違いがあること、ないことは、その二人が別人であることと別のことである。(p141)


同様のことは、本書のなかで何度か繰り返し言われ、リベラリズム批判の文脈のなかでも言われている。

(前略)比較できないことを強調する人たちは、人の固有性、単独性について、間違って考えているのである。その人たちは、人の多様性を認めようとする態度から、選好や評価に立ち入ることをためらい、比較を避けようとする。一人一人のあり方を認めようとするその姿勢は認めよう。しかし誤解がある。様々のところにたくさんの共通点を持つ二人の人は、しかし同一の人ではなく、別々の人である。似ていること、同じことは、一人一人の単独性とは基本的には関係のないことである。(p232)


この著者が、人間の存在、ことに他者の存在について、(著者が言うところの)リベラリズム的な認識とはまったく異なる捉え方、また尊重の感覚を持っているということが、ここから分かる。
比較を避け、踏み込まないことで多様性を是認しようというような態度とは大きく異なる、ごつごつした世界で、この著者は他者と共に生きている。そう言えばいいだろうか。
この人が見ている他者の存在の固有性、人間の存在というものは、比較を避けることで守られるような多様性が失われたぐらいで、消え去ってしまったりはしないものなのだ。
そういう、ごつごつした人間の世界の手触りのようなものを、その思考から感じられることが面白い。


ちょうどこの本の最後に近い部分で、ある人が持っているさまざまな属性や性質と、その人自身の存在を承認することとの関係が論じられているのだが、そこにも、この著者の思考の特徴がよく示されてると思う。
ここで著者は、属性や性質に還元されないようなその人の存在そのものの承認こそが大事だと主張するわけだが、その方向は、ふつう考えられるリベラリズム的な理解とは逆のものなのだ。

(前略)しかしこのときにも、様々な特性のある部分が認められることと、その属性によって自分が認められることとは異なる。その自分を肯定されることは、その内実を剥ぎ取った空虚な自分の部分が肯定されなければならないことではない。作ることによってでも所属することによってでもなく承認されること、それらを剥ぎ取るのではなく、それらを含みながら、なんでもよいというあり方で肯定されることである。
 それは、その周囲の者たちにおいては、その人がその人であるというただそれだけのことによって承認するという行いの中に可能になる。そしてそのような承認の水準は存在する。そしてそれは、その人がどのように自分を作りまた表象するのかの自由を認めることも含みながら、しかしそれだけでない行いとしてなされる。これは核としての無内容な透明な存在としての人間を承認することではない。そんな無内容な透明なものは、嫌うこともできないが肯定することもできない。(p279〜280)


これは力強い、骨太な、厳しい、しかし体温を感じさせる思想だ。