- 作者: カールマンハイム,Karl Mannheim,福武直
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1962/08/21
- メディア: 単行本
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先日書いたように、『イデオロギーとユートピア』ではマンハイムは主にイタリアのファシズムについて論じているわけだが、自身が1933年にナチスに追われてイギリスに亡命するなど、ドイツでのファシズムの高まりを前にして、考えを社会変革の実際的な方向へと大きく進めていかざるをえなくなった。
本書『変革期における人間と社会』には、マンハイムのそうした論考が集められている。
ここでは、特にファシズムに関わる論述を何箇所か見てみよう。
社会の或る集団や階層が潜在的な非合理的衝動によって活気づけられるものであることは、われわれの常に知るところであるが、近年における最も不幸な結果は、このような集団が非合理主義に耽溺したということのみでは決してない。むしろ、過大な非合理性に何らかの抵抗をするであろうとわれわれが期待した他の階層が事件によって度を失ったことの方が、遙かに悪かったのであって、これらの階層はいまや一夜にして、社会における理性の力への信念を喪失したのである。(p45)
一部の非合理的な、あるいは粗野な集団や階層だけが問題なのではなくて、大多数を占める「他の階層」が、なぜそのような非合理主義の氾濫に対して無力であったのかということこそ、より重大である。
これは言うまでもないことだが、何度でも確認しておかなければならない視点だ。
こうした問題意識に駆られたマンハイムは、ヨーロッパ社会における合理主義的要素と非合理主義的要素の葛藤の歴史を振り返っていく。彼が着目する一つのポイントは、宗教改革の時点である。それは、旧秩序の危機に際して噴出し始めた「大衆的衝動」を、「新しい宗教」の創設によって意識的に組織化することで、社会統合を維持することを目指した動きだったといえるが、そこに著者は現代のファシズム権力との類似を見ているわけである。
すなわち、大衆的衝動を意識的に嚮導して新しい目標に組織化することが、緩慢な淘汰過程を通して「有機的」に欲求の目的が固定していった以前の形式にとって代ったのである。かくして例えば、古い感情的な背景を破壊し、さらに新しい象徴を利用することによって、これらの分解せる衝動を各自の目標に一層役立つようにするために、新しい宗教を創造する試みが行なわれる。このような過程はまさに宗教改革において作用していたのであり、中世封建社会の解体後新しく組織されつつあった政治的権力は、現代の独裁者の或る者と同様に、新しい宗教的感情を利用して彼らの権力を回復し、解放された非合理的な諸要素を抑制することをも必要と見たのであった。そしてかようなことは、全然ありえないことではなく、実際の高度の蓋然性をもつものである。(p74)
マンハイムの時代に目を点じると、ファシズムの拡大にあたっても大きな役割を果たしたのは、やはり新聞やラジオなどの「宣伝技術」のテクノロジーだった。ここにマンハイムは、大衆社会の特色と、その組織化(計画)にあたっての重要な課題を見ていることは勿論だが、その見方はある意味で徹底的である。
このようにして(注 新聞やラジオなどの宣伝技術の発達によって)、人間性の形成過程の中に、新しい要因が入りこんできたのである。今日にいたるまで、われわれは、種々なる形式の教育や宣伝の間に比較的自由な競争が行われ、それらが徐々に自然淘汰されることによって、近代的条件の最もよく適合した教養ある人間型が先頭に立つにいたるであろう、と信ずることができた。しかるに、宣伝機関が少数の手に集中される場合、それはより原始的な型の人間に独占されることもありうるのであって、その時にはすでに現われている精神的な退化が永久的なものとなる。これらのことは、実際に、人類が以前のごとく歴史をして計画されない経過を自由に辿らしめる代りに、その事件を自分で規制しはじめた時、初めて生じた新しい問題である。(p89)
マンハイムの思想の重要な点は、教育や宣伝によってもたらされる環境の変化が、「人間性」そのものを変えてしまう、という認識にある。「人間性」は何ら不変のものでなく、教育や宣伝技術によって
そうである以上、そうした教育や宣伝技術が「原始的な型の人間」(ナチスを指すのであろう)たちの手中に落ちれば、恐るべき「野蛮」な時代が到来することは避けがたい。
不変の「人間性」なるものを、これに対する防波堤とすることは出来ないのだ。
こうしたことは、現代社会においては逃れられない条件なのであり、問題はこの、教育や宣伝による人間変革の可能性を、原始的(非合理主義的)な勢力から切り離して、計画(マンハイムのいう「民主主義による計画」)の統制下に収めるかにある、ということになる。
ところで、ナチスをめぐる状況について、もっともアクチュアルな言及がされていると思えるのは、第三部の「危機・独裁・戦争」という論考である。
失業の増大などによる「非組織的不安定」の時代に、大衆がファシズム的権力や国家的威光に引きつけられていく様子を、マンハイムは次のように書いている。
非組織的不安定の時代の間は、仕事や社会的承認の分野におけるその努力に対し直接的にして実際的な満足を與えられないために、「身振成年」となり、代用目標を立てて生き、身振や象徴で満足している傾向がある。(中略)最初の渇仰水準を変更し、人々を導いてあたかも元来の目的であるかの如くに象徴的目標を追求せしめることが可能となり、その代りに彼らがバターの代りに国民的威光を望むようになるや否や、彼らはもはや後者を象徴とは感じないようになり、これらをむしろ真の満足を與えるものと考えるに至るであろう。(p161)
かくして、新しい象徴は重要性を増すのみでなく、その実在的威光も高められる。すなわち国民の名誉と栄光への努力は、全く経済的利得への努力と同様に、現実的な実務であるかのように思われるのである。新象徴が代用物以上のものとなるように思われ、しかも実際に新しい社会的実在となるも一つの理由は、それが立ちかわって同様にそれ自身の相互関係活動の網状組織を産み出すということである。これらの活動は、ある期間は不毛にして稔りのわるい状態に止まり、韻律もなければ理由もない議論を際限なくやったり、あるいは群をなしてぶらぶらうろついたり、行進し廻ったりするに過ぎないこともあろうが、後には準軍事的運動となり、かつ「抑圧集団」を形成して今なお承認されている秩序である社会体制に時々圧迫を加えるに到るであろう。(p163)
ファシズムの兆候としての、「行進」や空虚で際限のない「議論」には、とりわけ要注意というわけだが、ここで大事なことは、代用物であったはずの「象徴」が、しだいに実在物であるかのような威光を持つようになり、人々を支配していく過程である。
大衆はバターやパンよりも、象徴的威光をこそ求める場合があるという実感は、ファシズムの勃興と、その覇権に対する合理主義やマルクス主義の無力を体験した、マンハイムの世代のドイツ・中欧の知識人の多くに共有されたものだったのだろう。
この傾向は、ファシズム権力が政治を掌握する状況、つまり「組織的不安定」の段階に入ると、いっそう明白になる。
いくぶんの損失がある毎に或る心理的代用物を以て均衡を保ち、また身代りを見出し集合的に嚮導された熱狂への機会を作り出すことによって、生活水準を抵抗なしに漸次低下させることが、今や可能なのである。パンいよいよ少くして曲芸いよいよ多し、というわけである。(p165)
生活水準の引き下げは、作り出された集団的熱狂によって忘れさられる。あるいはむしろ、多数的な大衆によって歓迎されさえするだろう。人は、作り出された非合理主義的社会状況のなかで、「パンではなく、サーカスを!」と絶叫することすらありうるのである。
ここで言う「サーカス」(曲芸)とは、もちろんオリンピックや党大会や、アウトバーン建設などの国家的事業、あるいは突撃隊などによるユダヤ人襲撃と、それを先兵とする差別・絶滅政策、そして戦争のことである。
このような社会の支配の原理は何か。それは、いわば支配的階級による、国内社会全体の植民地化のようなものだということを、マンハイムは明示する。この指摘は、ひときわ重要だろう。
この新しい型の社会の本質的な特色は、それが経済的および行政的活動に対してのみならず、新しい心理的調整に対してもまた進路を開くということである。ただに政治や産業が計画せられるばかりでなく、心理的混乱や一般的な崩壊が慎重に指導せられるが、それは、今なおその理性的な打算的思惟を維持し、また多かれ少かれ一般的瓦解の焦点外に立っているために依然として落着いていることのできる人々の都合のよいように行われるのである。彼らは、意識的に戦争もしくは自給自足さえも望むことがあろう。何となれば、全国民にとっては経済的に非合理なことも、特殊の集団――産業家、軍隊指導者、および官吏のそれ――にはなお利益となることがあるからである。彼らの心理は、一種の賭博によって説明せられる。その賭博においては、国民は損失しても、彼らはなおかつ富むのである。軍隊的カストが、戦争中占領地区で用いたと同じ方法を自国に用いることによって自己を再建するのとちょうど同様に、産業的商業的ボスどもは、一度組織的不安定の段階に達するや自国を植民地とほとんど同様な搾取分野と見なすのである。そして彼らは、新しい状況を、帝国主義的膨張を準備するために利用する。何となれば、彼らの巨大なる独占にとっては、自国の閉鎖された領土はあまりにも小さいからである。
新しい似而非活動の網状組織の中には、心理的再調整が起るように思われる。名誉や卓越の新たな体系を新たに設立することによって、社会的大望心は再び満足を與えられる。そして失職の結果自尊心を失ってしまった人も、他人をその統制下に置くある組織に一地位を占めることによって、再びその自尊心を見出す。政党内には一人として最下位に位するものはない。何となれば、その下の最下級のものは、追放者すなわちユダヤ人であるからである。仕事がある種の典型を再び具えるようになるにつれて、先見や計算もまた回復せられる。そして祭典や演習が遠い前途を見越して備えられねばならない。もはや、種々なる形式の自己毀損に訴える理由はなくなる。すなわち、組織せられた国力の間断なき表示が、それを追払うのである。(p166〜167)
国内の意図的な貧困化と、被曝及びレイシズムの拡大という状況が政治権力によってあえて生みだされている、今日の日本の社会情勢を、そのまま語っているかのような記述だと思う。
こうした、権力による象徴による非合理主義的支配が、やがてどのような国民を生み出していくか、マンハイムの語っていることは、今のわれわれにはあまり馴染み深い現実だ。
かかる社会においては、指導者たる人々によって、ある時には怨恨を惹き起こしながら次にはすぐそれを宥めるということも可能となる。社会は、ボタンを押すと予期の反応が起るというような構造になる。ある時には隣接国の嫌悪が説かれるかと思うと、次にはそれと十年間も友好的に生活することに決定する。(中略)大衆は、少くとも公的事件に関する限り、自分らの個人的心的生活を放棄しており、いつでもロボットになる用意をしているかのように思われる。社会学者は、指導者の特異な心理だけを取り扱えばよいかのようである。(p167)
さて、先にも述べたように、ファシズムの勝利と支配を眼前にしたマンハイムの切実な関心は、人間性の根本的な改変可能性という現代社会の現実に対処して、教育や技術を通した反ファシズム的・反全体主義的な社会の構築を、いかに構想していくかということだった。
もはや自由主義、自由放任の社会のあり方(とりわけ自由主義的な資本主義の論理)によっては、ファシズムの到来を避けることが出来ないのは明白である。経済を含めた、個人主義的なさまざまの自由を統制し、民主主義的な「計画」によって、人間と社会との成り行きを意識的に形作っていくことが、われわれの真の「自由」を確保する唯一の道だ、と考えられたのである。
マンハイムによれば、ファシズム(行動主義)は、社会による自由の統制という、社会統合のための実践的課題にいち早く着目し、それに一つの回答を与えるものではあったが、ただその照準するところが、人間の表面的な情緒の部分にとどまっていて、マンハイムが構想したような根本的な人間と社会の変革に到っていないところに、その限界があるとされるのである。
けれども計画に関する限り、行動主義は、個人と社会とを実際に変形しようとする要求を最初から断念しているのであるから、その点で限定されている。(中略)ファシズムは、行動主義の水準において政治界を計画しかつ改変する。(中略)ファシズムは、そのイデオロギーにおいては、人間における本能的諸力を讃美するが、しかし実際には、人格の奥底に徹することもなく、またその真の複雑性を正常に評価するものでもない。(p260)
しかるにファシズムは、あらゆる主要な生活面において、またあらゆる重要な社会関係において、非合理的にして感情的な方法を使用しなければならない。何となれば、ファシスト体制は、新しい経済的並びに社会的構造の基本的諸困難を解決するものではなく、単にそれらを、隠蔽するに過ぎないからである。しかし、一つの点において、ファシスト諸国は、自由主義的諸国家に勝っている。(中略)それは、その方法が如何に野蛮であるとしても、少くとも永久的失業という心理的影響を除去しようと試みている。その社会的技術は、故意に大衆の啓蒙を拒斥して最も原始的な衝動に訴えるが、このように歪曲した形式ではあっても、それの関係しているものは少くとも、あらゆる未来の大衆社会が解決しなければならない諸問題である。(p311)
こうした、ファシズム(それに全体主義)に対するいわば「両義的な」評価に、マンハイムの議論が批判されてきた理由の一因があるのだろう。
だが、マンハイムの留保的なファシズム批判(同時に自由経済主義批判)は、次のような一節を読むときには、やはり大事な視点を、われわれに教えていることが分かると思う。
民主主義の目的は、大衆の情緒を弄ぶことではなく、一般民衆感情の動揺する諸反応を阻止してその国民の合理的にして思慮深い世論を挫折させないようにするにあるのである。(p434)
このようにして、大衆社会における民主主義的原理は、二つの方向において改革されねばならないことになる。一方において、われわれは、大衆社会における情緒の統合的意義を再発見しなければならない限りにおいて、啓蒙時代並びに合理主義の限界を越えねばならない。また他方、新しい水準において情緒と理性とを整合しなければならない。(中略)情緒が近代社会において一定の役割を演ぜねばならないということを承認することは、その結果として近代的な全体主義的技術を使用している精神そのものを承認するということになるのではない。何となれば、その精神は、単に大衆の気分における最低の公分母を利用するに過ぎず、かつ市民の協力を動揺する情緒的反応に限定するからである。われわれにとっては、情緒の重要性は、新しい意味で再発見されねばならず、また、究極的に集団を統合する基底的な論点の評価や、共同体の歴史的生活の所産である基本的価値や、社会の公正な再建を目指す新しい理想が、一層強調されなければならない。(p435)