人間の社会に唾を吐く省令改悪

報道によると、下村文科大臣は、朝鮮学校を高校無償化の対象から除外するための省令改悪を、20日付けで行うと発表したそうである。


このことの、何が最も暗澹とした気持ちにさせるかというと、それはこの差別的な法の制定によって直接に被害を受ける人たちが居るという事実だけでなく、政治的理由によって人権を侵害し、またポピュリズム的でもレイシズム的でもあるような「政治的」意図によって法を改悪するという行為が実際に行われたことによって、この社会全体の民主主義や人権の土台が、決定的に損われたことである。
決して、「少数者だけでなく、われわれマジョリティにも被害が広がるから」という手前勝手な心配をしているのではない。
差別の実害を受ける少数者、ここでは多くの在日朝鮮人朝鮮学校に関わりを持つ人たち、その人たちの生を国家や大衆の差別の欲望の犠牲にするような社会が、取り返しのつかない形で確立されようとしてるということだ。差別的な恣意によって、法を改変してしまうというのは、そういうことである。
取り返しがつかないというのは、後からやっていることの愚かさに気がついて修復しようとしても、もう遅いということだ。
今回の決定は、日本が名実ともに「非人間的な国」になる、決定的な一線を越えてしまう決定だったという気がする。


たしかに、近代以後の日本が、「人間的な国」であったことなど一度もないであろう。
だが、少しでも「人間的な国」に近づこうとする意志が、社会のなかに皆無だったわけではなく、そのわずかな意志は、たとえば憲法や、それにのっとったいくつかの法や制度の仕組みとして現れていたはずである。
それらは、到底十分なものではなかったが、人間に対する破壊的な力の噴出に対する歯止めの役割を、戦後においてはかろうじて果してきたと思う。
その歯止めを、いまこの国は、自ら棄て去ろうとしている。
この差別と民族的な憎悪に満ちた愚かな法の改変は、その明らかなさきがけである。


こうした行為は、国家や差別的な国民の心情が、われわれ人間の生命や身体に対して唾を吐きかけたようなものだ。
このような政治の決定に怒りを感じない人は、自分自身が人として生きることをも、どこかで放棄してしまってるのだと思う。


日本社会の権力者やエリートや大衆が、進んで自分たちの社会の民主的な土台を瓦解させようとしているのは、自己破壊的な衝動に身を委ねていることの現れに他ならないだろう。
それは、レイシズムや戦争への希求といった分りやすい形だけでなく、「アベノミクス」や「復興」や「脱原発」といった、心を躍らせる言葉に熱中することで、貧困や競争社会や、被災や被曝といった、生命に直接ふりかかっている脅威と侮蔑から目を逸らせ続けようとする態度としても、現れているものだと思う。
そうした、シニカルで自己破壊的な衝動の犠牲のようにされる人たちの存在を、見殺しにしてはならない。われわれ自身の空虚な願望のまきぞえに、他人が侮蔑され命を危くされさえするような社会の到来を、手をこまねいて見ていてはならないのだ。