「慎ましやかな人」と介入

立岩真也著『自由の平等』の第4章以降では、リベラリズムの立場の限界に関して批判的な考察が行なわれていると昨日書いたが、そのなかでもとくに重要と思える論点のひとつに、「慎ましやかな人」の問題と呼べるものがある。
このことは最初、「人が同じだけ満足できるような水準で分配を行うことは可能か」について考えるにあたって、そのことに疑義を呈したアマルティア・センの次のような一節を含む文章の引用という形で提示される。

長年に亘って困窮した状態に置かれていると、その犠牲者はいつも嘆き続けることはしなくなり、小さな慈悲に大きな喜びを見出す努力をし、自分の願望を控えめな(現実的な)レベルにまで引き下げようとする。(p167)


つまり、ひどい抑圧や困窮のなかに生きてきた人においては、何を満足と感じるかという主観的な閾値のようなものが著しく下がってしまっている場合がある。
このときに、その人の主観、つまり満足するかどうかだけを基準にして分配を行うなら、こうした人々には著しくわずかな量、十分な生活や、ときには生存さえおぼつかない少量しか分配されないことになりかねない、ということである。
リベラリズムは、個々の主観を尊重し、人が何をもって満足と感じるかということを客観的な比較の対象にしてはならないものと考えるので、この問題(アポリア)にうまく対処できない、というわけである。


立岩は、センが強調しているこの問題の射程について、次のように述べる。

これはとても大きな問題だと思う。少しでも「援助」について考えたことのある人はこのようなことについて考えている。満足して慣れてしまっているならそれでよいではないか。それをとやかく言わない方がかえっておせっかいでなくてよいではないか。あの人はほんとうは不幸なのではないかと勘繰る方がまちがっているのではないか。それは「自文化中心主義」的ではないか。(p181)


これは、ひとつには他人の内実に、「援助」や「支援」をしようとする人はどこまで踏み込んでよいか、という問題だ。支援者自身が不当と思っている状況において、「抵抗したくない」あるいは「生きたくない」とさえ言っている当事者がいるとき、支援者である私は、その人の意志や主観(内面)を尊重することをどのように考えればよいか。
ときに、その当事者の主観的な生のある部分に対して暴力的・破壊的であるかもしれない「介入」について、私はどのように考えていけばよいのか。
これはたしかに、あらゆる社会運動や社会的な問題の現場で日々問われている事柄だろうと思うし、国際的な援助においても、常に議論されてきた問題だろう。そしてもっと卑近な言い方をすれば、「慎ましやかな友人」に助力したり勇気付けたりすることの難しさは、多くの人が日常的に感じるものではないかと思う。
また、数世紀前からヨーロッパをはじめとして広く論じられてきた「啓蒙」をめぐる議論も、この「介入」の暴力性ということに関わっている。


だが、立岩がここで批判するのは、われわれが属するこの社会には、そうしたリベラリズム的な「良心」を隠れ蓑として維持されてしまう秩序や権益、もっと直接に、「体制」があるのではないかということである。
(また、逆の立場から、「主観的な生」の乗り越えがたさと、そのことの政治的な成り立ちや機能というものには、ぼく自身大きな関心があるので、その意味でもこの話題には興味を引かれる。)


リベラリズムの立場が、それに対して出している回答は、「介入しない」ということだといわれる。コソボにおけるような「人道的介入」ということをどう考えるかということがあるので、これはどこまでそう言えるのか疑問もあるが、ともかくこの本で立岩は、「慎ましやかな人」と「介入」をいうことをめぐって、綿密な思考を展開している。
その大きなポイントは、次のような点にあると思う。

つまりこのことの気持ち悪さの核心は、周囲の側がそれをよいことに何もしないでいてしまっている、あるいは安くあげてしまっているところにある。それはしてはならないと考えられるから、少なくともそれを周囲から言うべきではなく、その人の言葉を利用してはならないということである。
本人がそれでよいと言うままにしない。それはどんな場合にか、なぜか、そして具体的にどのように対するか。「安楽死」についてあるのも同じ問いであり、またそれはパターナリズムの問いと同じ問いである。だから同じことを述べた。決定はその人のもとに置かれるべきだとして、しかしそれをよいことにそのままにしておくことは不当である。(p183〜184)


つまり、立岩が問題にしているのは、ひとつには「介入しない」、「人の主観に踏み込まない」というリベラリズム的な態度(良心)によって、周囲の誰か、多くは今の現実のなかですでに利益を得ている人たちが、さらに利益を得るということだ。
これは、リベラリズムという思想のあり方が、ある既成の秩序や権益を保持するための道具として用いられているということだと思う。
それは、そのように用いられる弱さが、この思想にはあったということを示している。


立岩は、当事者自身の主観や満足を尊重するべきであるというのはその通りだが、同時に「慎ましやかであること」や「生きたくない」と考え申し出ることを本人に強いている規範の内面化ということ、そのような規範を内面化させるような社会を批判して変えていくことがなされるべきであるのに、リベラリズムはそれを回避するのだと批判するのである。
つまり、リベラリズム的な「不介入」の立場、個の主観の尊重の思想が持つ、体制維持的なイデオロギーとしての機能が、ここで批判されているのだ。
こうした批判の方向が明確になるのも、やはり「安楽死」の問題を考えるなかでであったという。

病にあっても現実に生きていける資源、資源を使える保障が与えられるなら、それで生きていけるだろう。しかし仮にその条件があっても――大抵はないのだが――自らが為すことのできることが少なくなるときに生を辞退することがある。この決定にはリベラリズムもまた内属しているこの社会が関わっており、私たちは、社会が関わっているからではなく、この社会にある規範がその内容において間違っているからそれを変えるべきだと主張する。(p343〜344)

最終章の第6章では、この点での立岩の批判の論旨は、さらにはっきりしてきていると感じる。

出自が出自だから欲するものが少なくて当然だと考える人たちをリベラルな分配派は問題にするのだが、それとまったく同じに、自らのできることの多寡によって受け取りの多寡を当然としてしまうこと、それを当然とする社会にいるために自らの自己決定として受け取らない人がいることをそのまま認めることもまた批判されるべきだとする。(p263〜264)


これは、リベラリズム的な分配論の批判的な乗り越えといえると同時に、人の存在と生産及び所有についての立岩の考えからすると当然の帰結といえる見解だ。
立岩の立場は、そのような価値観(規範)を内面化させるような社会を変革するべきであり、それができない限り、本人の選択や意向をそのまま受け取ることはできず、一定の「介入」はやむをえない、とするものである。(p186)


こうして、リベラリズムの立場に対する立岩の批判、それとの異なりは明確にされるのだが、そのことによって、「慎ましやかな人」への対処をめぐる問題の難しさが消し去られるということはない。
このように書かれる。

ここにある困難の一つは、人が既に社会で過ごす時間が長く、その時間がその人に堆積していて、変更が間に合わないことがあるということである。その社会の中にあれば、その人はその中に生きてきて、自らの価値を形成・整形して生きてきている。そのことにおいてその価値は拭い難いものとしてあり、その人に大切なものであるかもしれない。しかし、それはその人の存在にとって否定的なものであることがある。その間にあってどうしたらよいか。現実にあるのはそういう問題だ。(p264)


ぼくも、この問題の核心は、このへんにあると感じる。
そこには、「主観的な生」ということや、その社会的な傲慢さ、あるいは政治性ということ、またリベラリズムの限界といった問題系に還元されない何かがある。
それは、他者の生と関わることをめぐる、またこの世で生きるということをめぐる、根本的な何かなのだろうと思う。


自由の平等―簡単で別な姿の世界

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