市野川のルソー論について

明らかにすべきなのは, 画一化を拒否するそのルソーが, なぜ『社会契約論』で国家のために死ぬことを市民に強制し, 「のろわれた」者の迫害を正当化するのか, なぜ, それほどまでに息苦しい画一化と同化を求めるのか, である. (市野川容孝『社会』p123)


きのうのエントリーの最後のところで、立岩の分配論で一番議論になるのは、分配の方法として強制、とくに国家による強制ということが強調されているのをどう考えるかという点だろうと書き、どうもそれはこの人の「所有」についての考え方と関係していると思えるので、『私的所有論』という著作を読んでみようと思う、と書いた。
それで、今日たまたま市野川容孝著『社会』の二つ目の章「社会的なものの系譜とその批判」というところを読んでいたら、ルソーに関して、その再分配と平等についての思想が、なぜ最終的に国家による強制の肯定ということに行きつくのかといった問題が論じられていた。そこでも、「私的所有」ということの捉え方が、重要な意味を持つものとして語られている。
もちろん、ルソーの考えていた国家と、立岩の考える国家とはまったく違うものだろうから、両者を重ねて考えることはできないはずだが、それでもどこか似ている点もあるように思え、興味をもって読んだ。整理してみよう。


市野川の関心は、今日ではすっかり脱規範化してしまった「社会的なもの」という概念に規範性を取り戻そうとすることにある。そのための手がかりのひとつとして、ルソーにおける「社会的なもの」の概念を再検討しようということである。
まず、著者はルソーが「自然人」との対照において「社会」や「社会人」を批判的に語る場合、その社会(civil)とは、宮廷社会を指し、それを成立させていた不平等な身分制の社会のことを言っているのだという点を強調する。
ルソーは、不平等な社会(civil)を批判し、それを乗り越える平等な空間としての社会的なもの(social)を構想しようとしたのだというのが、ここでの論旨である。
これは、そう言われてみるとなるほどと思うが、今まで気がつかなかった。
だから、アーレントがルソーにならう形で「社会的なもの」を一概に斥けているのは、ルソーの社会についての思想の核心を十分理解していないことになるわけだ。


さらに興味深いのは、ルソーの社会(social)についての思想が、それに先立つイギリス道徳哲学(ロック、ヒューム、スミスら)との対比において論じられていることだ。
著者によれば、これらイギリスの思想家たちの社会思想は、(近代的な)所有権に基礎を置く「正義」(ジャスティス)の尊重と、そこから生じる社会的不平等に対する是認を本質とし、それに比べれば他人への「慈愛」は二次的な意味しかもたないとするものであった。
これに対して、その次の時代にあらわれ、「憐れみの情」の意味を強調したルソーの社会思想は、最終的には、この不平等な社会的現実を、(「自然状態」への退行によってでなく)「私的所有」という条件の肯定を媒介として、平等な社会の実現という方向へと向けさせようとした点に、その本質があり可能性の核心があるというのが、市野川の考えのようなのだ。
ここはなかなか難しい話になっているのだが、市野川が強調しているのは、ルソーがある時点で、自他の分離をもたらすものとしての「私的所有」という前提を受け入れたことにより、つまり「私的所有」以前の「自然状態」への回帰という幻想を手放したことによって、彼の「平等な社会」に対する理論的追求が可能になったのだ、ということらしい。
それは、「私的所有」の概念とは、「私のもの」と「あなたのもの」という区分を引くことにより、自他の間に分離をもたらし、そして差異を意識することを可能にするものだからだ。
たぶん、この「分離」ということが、差異の尊重ということ、市野川が考える「社会的なもの」の可能性の中心部に関係しているのだと思うが、そのへんはまだはっきり分からない。


そこで冒頭の話に戻るのだが、そのように「平等な社会」を志向したルソーの思想、それはまた身分制社会の抑圧から解き放たれた「自由な」人間の出現を目指すものでもあったはずだが、なぜその構想が、国家による強制や犠牲、また宗教的不寛容といったことにたどり着くのか。
結論をいうと、市野川の答えは、ルソーが最終的に、「所有」(差異)の尊重ということに留まれなかったから、ということである。つまり、彼は最後には、自由で「憐れみの情」に満たされた「自然人」としての自己を、他人との差異のなかで揺れ動く「社会」的な自分の存在よりも優先させてしまう。差異の尊重、おそらく社会的な関係や配慮といったことよりも、苦しんでいる目の前の他人との「同化」という心情的な偉大さ、直接性の方に傾いてしまう。
その意味で、ルソーはやはり、「社会的」でありとおすことはできなかった、ということになる。「社会」が必然的にはらまざるをえない不安定さや不純さに、ルソーは耐えられないところがあった。
だから彼は、社会から退き、閉じこもる。
それは、絶対的な同質性(同化)を求めてしまう激しさであり、弱さ(繊細さ)でもある。
そこに、市野川はニーチェの思想と同様の危険さ、つまりひたすら純粋な同質性だけを求めて、「社会」の不純さを拒絶し、その外側にあることをよしとする態度が、ファシズム全体主義を魅惑することになるという危険を、ルソーにも見出すのである。

つまりは, 社会的なものの舞台から降りること. それが, ニーチェと『不平等論』のルソーが説く「自由」である. (p123)

市野川はここに、ルソーという「自然人」の、社会参入(「私的所有」の受け入れ)によって抑圧された「自由」、偉大だが無垢な生命力のようなものの「回帰」(フロイト)を見出している。
分かりやすく言えば、社会の不平等に憤る神のような、預言者のような純粋な怒りが、国家による理不尽なまでの強制として、あるいはファシズムへの呼び声として「回帰」する場合がある、ということになろうか。
ルソーの、偉大な退避(退行)の思想は、たしかにファシズム全体主義にもつながっていると、ぼくも思う。「降りること」は恐ろしいのだ。
市野川はこう書いている。

ファシズムとは異なる自由を構想するためには, ルソーとは異なる仕方で, 自由をもう一度, 考え直さねばならない. それはつまり, 自然状態へと退行することなく, 社会的なものの圏域の只中で, 私とあなたの区別の中で, 自由を考え抜くということである. 他者に同化する憐れみに満たされていようとも, いやある意味では, まさにそうであるがゆえに, ルソーの自然人は他者に対して全く無関心なのだ. (p125)


ルソー的な「同化」に対する市野川の批判には、立岩の論と通底するような強い現実的な基盤があるのだろうと思う。
ぼくはしかし、いま少しルソーの「弱さ」と差異(他者)の関係について考えてみたい。