働くことと生きること

先日のエントリーで書いた『カネと暴力の系譜学』のはじめの部分に、次のような一節がある。
ずっと気になっていることなので、それについて少し整理して考えてみる。

では、カネを手に入れるためにはどのような方法があるだろうか。
原理的にいえば四つの方法がある。難しい話ではない。


一、 誰かからカネをもらう。
二、 みずから働いて稼ぐ。
三、 他人からカネを奪う。
四、 他人を働かせて、その上前をはねる。


 最初の「カネをもらう」というのには、いろんなケースがある。たとえば、家族に扶養されていたり、生活保護をうけていたり、ヒモだったり、「パパ」がいたり、寄付や補助金をもらったり、といったケースだ。
問題はそのあとの三つである。じつはこれらは、よく見ると、社会の枠組みをくみたてている三つの柱にかかわっている。労働、国家、資本だ。(p10)

生存・分配と所有・労働

こうして、以下この本では、現行の「社会の枠組み」を作っているものである、三つの方法について考察される。
「二」は労働によって個人がカネを得るということであり、それが国家や資本によって奪われることにより、この社会は成立しているのだとされる。現実の枠組みとしては、たしかにそうだろうと思う。
ところで、マルクス主義などで「搾取」と呼ばれる議論は、「二」の行為をしている人が、「三」や「四」の行為によって、他者から収奪されていると考えるわけである。それが「不当なことだ」とされるためには、「二」が正当なことであるという前提がいる。付言すると、賃労働の正当性という考え自体は、マルクス主義にも自由主義的な考えにも共通するものであろうと思う。
まず、これがちょっと疑問である。
もちろん自分の努力の成果を自分が得るということ自体は正当だろうが、問題は、それを独占することが正当かどうかということだ(そもそも賃労働を成立させている現実の経済の仕組みが道徳的に「正当」という言葉に値するものかどうかということは、ここでは考えないことにする。)。
自分以外に窮乏している状況の人がいたら、自分の取り分を、それが自分の取り分になった経過が賃労働の結果であろうとなかろうと、その相手に分配することが「正当」なことの基本だと思う。実際に、そうできるかどうかは別にして、筋というか、基本としてはそうだろう。
ところが、「搾取」とか「収奪」の不当性という論法では、ちょっとそこのところが曖昧になる気がする。つまり、「分配」ということの意味が、この論理からは見出されにくいのではないか、と思うのだ。


こうしたことに関連して、たとえば立岩真也著『私的所有論』(勁草書房)という本の第2章注(14)などに、「搾取」概念への綿密な批判が書かれている。
ぼくの考えは、この著者などの思想に強く影響されているだろうから、そういうものを読んでもらえば、ぼくの書いてることは別に読む必要もないだろうと思うのだが、自分が漠然と思うことをなぞるように書くことによって、何か違うことが付け足せるかもしれないので、一応書いてみる。


さて、収奪する、「奪う」ということについて考えてみる。
他人のものを奪うのは、常に悪いことなのか、それはどういう意味においてか、ということである。
たとえば、人一人が生きるのに、「1」のものが最低限必要なのに、それをもっていない人が居るとする。その人の横に「100」を持ち、独占して人に渡そうとしない人が居る。このとき、「1」しか持たない人が、「100」持っている人から、自分が生きるに必要な分だけを奪うことは、法的には不当(違法)だろうが、道徳的・倫理的には正当であると思う。もちろん、そこに殺傷や破壊が含まれる場合は、別の問題だが。
基本的に、人の生存は、所有の規則よりも優先されるべきだ。
だから、他人が所有しているものを奪うこと、収奪することは、無条件に悪であるとはいえない。
資本や国家による収奪が不当であるというのは、それとは別の論理による主張でなくてはならない。
つまりそれは、収奪の機構が「分配」を損なうから、そしてそのことによって人の十分な生というものを損なうから、ということではないか。


「100」の富を独力で得た人が、その富を自分や自分の家族で独占することは、権利としても自明なことではない。そう言える根本的な理由は、所有の規則の維持よりも、自分だけでなく他人も生きていく、ということの方が優先されるべきだからである。
なぜなら、そのことによってのみ、私の生は十分に実現されると思われるからだ。「他人も生き続ける」ということが、社会のルールや仕組みよりも、またそれに規定された自分のエゴよりも優先されない状態というものは、私の生の十分な実現を損なうのである。


ところで、はじめに引用した「四つの方法」では、「二」が、つまり賃労働の成果が正当な出発点として考えられ、その正当なものが奪われることによってこの社会は成り立つのだとされた。
だが根本的には、「二」が正当と言えるのはどのような意味においてか、ということが考えられるべきだ。私が労働によって得たものが私に帰属する、という考えが、自分だけでなく他人も生きていく、という基本を損なわない限りにおいて、それは正当なのである。
もっとも重要なのは、人々が生きていくための享受と分配であって、労働や所有(の区分)はそのための手段に過ぎない。


「もらう」という行為

そう考えると、「四つの方法」のなかで、「一」がはじめから別枠として置かれていたことは、別の意味をもって見えてくる。
「もらう」という行為は、人が生きていくための活動と関係性から、現行の社会の枠組みを成り立たせているものを切り離したときに、残るものであるといえる。
もう少しよく考えてみよう。
労働をせず、ただひとから「もらう」だけの人は、社会の枠組みの外部に生きている人のようにも思える。だが、「もらう」ためには、よくも悪しくも何らかの関係性、社会性が必要であるのだから、実際には、この人はある特殊な仕方で社会のなかに組み込まれて存在しているのだ、と考えたほうがいい。
ひとつの考え方として、それもじつは一つの労働なのだ、という意見がある。しかし、そう考える必要があるだろうか?どのような意味においても労働とは呼べない生き方であっても、その人は現に存在しているのだから、生きるための分配を受けるのは当たり前である。生き続けるために、資格や条件などいらない。
むしろ原理的に言うなら、すべての人はただ「もらう」人として、自分と他人を考えるべきなのだ。


労働をせず「もらう」だけである人が、それでも社会のなかに組み込まれているのだということの意味、そこから生じてくる課題というのは、それとは別のところにある。それはひとつには、このただ「もらう」という行為が、相手に対する引け目の感情を生じさせ、「互酬的」と呼ばれるような別種の権力の仕組みの形成につながるということである。そしてこの仕組みは、国家や資本による収奪の仕組みと相補的に働くものであって、つまりはその人の生の実現可能性を、(国家や資本がそうするのと同様に)ひどく限定された場の中に押し込め、損なうものであると考えられる。


ここで考えたいのは、これはただ「もらう」だけという場合とは異なるのだが、次のような例である。
たとえばマイナーな集団の権利や生活を守るための運動団体の常勤の職員が、普段は一般社会で賃労働に従事している団体の一般メンバーに対して持つ引け目の感情、それを通して自分の生活を犠牲にした「集団全体」(実際には団体や組織)への献身としての低賃金長時間労働が正当化されてしまうような、そういう心理のメカニズムが存在する。こうした引け目の感情が生じるのは、ひとつには、その人のなかに、賃労働のみを正当とするような価値観が内面化されているからだといえる。それについては、上に触れたようなある種の労働だけを賃金に値するものとみなすような、「労働の差別化」の思想として批判できるものだろう。
そういう種類の労働が一般の賃労働よりも低く評価されてしまう世の中の仕組みの方がおかしいのだ。
だがより根本的な問題は、この人は、自分が集団の他のメンバーに扶養されているという感覚、つまり生活していくための分配を受けていることに関しての恩義と言えるような、引け目の感情を抱いているという点にある。そのことは、この人が自分についてだけでなく、他人を含めたすべての人が生きるということについて、何らかの条件や限定を加えてとらえてしまっているということを意味する。
そうすると、この人が他人に対してなしうる分配の対象や仕方は、(ときには当人の倫理観に反して)限定的なものとならざるを得ないはずだ。同時に(ここがたいへん重要な点だが)、この人は、逆に自分が扶養していると見なすような他人に対しては、抑圧的・収奪的に振舞うことが考えられる。
これが、その人の生の可能性が損なわれていると、ぼくが言うことの意味なのである。


結論的にいえば、ただ「もらう」だけ、ということには、二つの意味合いがある。
ひとつには、それは「享受」という、人が生きて行く普遍的なあり方についての根源的な相を表わしているといえるところがある。これは、哲学的・社会思想的に意味を持つかもしれない。
だが同時に、それは特殊的には(賃)労働と対比されて、他人との社会的なつながりのなかで、生きていくための資源や品物やカネを受取るという、社会的・経済的行為としての意味でもありうる。この意味では、萱野稔人が言うように、「もらう」ことも、カネを手に入れるための一つの方法であり、それを行っている人は特殊な仕方で「この社会の枠組み」に関与しているのであり、それゆえにこの社会の構造的な問題に対して責任をもつ。具体的には、他者への分配の仕組みを改善していくということについて、一般的な責任を有しているのだと思う。


「収奪」論は間違いか

話を少し変える。
資本や国家による「収奪」と呼ばれるものを批判することが、間違いと言えるのかどうかということについて。
もちろん、マルクス主義者が問題にしていることは、資本による「搾取」が不当だということである。
一方、自由主義的な人は、この「搾取」と呼ばれるものが、不当なものではなくて、よりマシな状況を作り出すためには妥当であり、したがって正当なものだと考えるのであろう。「搾取」と呼ばれる行為によって資本に富が集中され、それによって技術革新がもたらされるという経緯による以外、この世の悲惨が軽減される道筋はないと、この人たちは言う。
「分配」ということに焦点を当てて考えれば、自由主義的な考えの人の主張にも、一件理があるように思える。
また国家による収奪については、理論上は、国家的な社会主義者より、自由主義者の方が批判的であるようだ。しかし、国家の過剰な介入を批判する自由主義者たちも、資本経済の仕組みと市場の成立を保障するものとしての国家の権力については、その有用性を認めているはずで、じつは徴税などによる国家への富の集中が、社会全体の状況を好転させる方法として妥当なものと考えている人は少なくないのではないか。
この立場にはっきり立つ人たちは、社民主義者と呼ばれるのだろう。つまり、一般に「左翼」とか「リベラル」と呼ばれる考えの人たちの多くも、ここに入る。
こうした国家による富の収奪を何らかの程度において容認、もしくは正当とする各種の主張も、もちろんそれぞれに一定の説得力を持つ。


それでも、マルクス主義的な考え、あるいはアナーキズムを含めた資本・国家への批判的な考えに小さくない説得力があると思えるのは、人間一人の力よりも、国家や資本の力ははるかに強大なはずだ、という直観があるからである。
少なくとも現在の形態の国家や資本は、公平な分配や、一人一人の幸福な生の実現にあまり寄与しない、むしろ逆の効果を多くもたらすとしか思えない。
資本に富を集中することにより、技術革新が促進され、結果として世界全体が豊かになり、困窮者を救うのには最も有効な方法なのだといった主張は、資本のグローバルな拡大と技術の発展によって得られる富のほとんどが一握りの人々(や国家)に独占され、何億という人たちが貧困と生命、そして生きる尊厳の危機に瀕している世界の現状を考えるなら、スターリン的な空約束となんら変わらない戯言にしか聞こえない。
『諸君は、黄金世界を彼らの子孫に予約した。だが、彼ら自身に与えるものがあるか。』というアルツィバーシェフの言葉は、いまや新自由主義の肯定者にこそ向けられるべきものだ。
国家と国際社会の現在のあり方についても、残念ながら同様の思いを持たざるをえないだろう。


そこで、現行のこの仕組みを変えていくことは、「収奪(搾取)」ではなく「分配」の視点から考えても、やはり必要なことは間違いない。
その必要性を主張するのに、「俺は奪われているのだ」という怒りの感情を根拠としてもってくることは、とっかかりとしては有効なのだろう。しかし、よく考えると、ここで「真実」により近いのは、「奪われている」ということよりも、怒りの感情の方である気がする。
「収奪」の物語よりも、コード化されない純粋な「怒り」という感情の解放の方が、「分配」という生の根本的なあり方の発見に、より近いものといえるのではないかと思う。


以下、こういうテーマに関係していると思う本。

自由の平等―簡単で別な姿の世界

自由の平等―簡単で別な姿の世界

私的所有論

私的所有論

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)