立岩のリベラリズム批判、さわりだけ。

ぼくは年賀状を書かないので、いただいた数通の賀状の返事を、今ごろ書いている。
こちらは出さず、何年か会うこともないのに、毎年必ず送ってくれる人もある。ありがたいことだ。


立岩の『自由の平等』(岩波書店)を読み終わりそうなのだが、ちゃんとした紹介や、まとまった感想を書けるかおぼつかない。体調がよくないせいもあるけど、そういう勤勉さがなくなってる。
正月に買った日本酒がうますぎて、ついつい飲みすぎて眠ってしまうのだ。
どうも業腹なので、今日は、ほんの少しだけさわりを書く。


この本は、(結果的にということらしいけど)前半がリバタリアニズム批判、後半がリベラリズム批判、という作りになっている。
『所有と国家のゆくえ』を読んだときに感じていたことだが、この後半の方がとくに面白いのだ。
ことに、「効用」に関連して『比較を避けてはならない』(p194)と言われているあたりは、重要な論点だと思う(できれば、詳しく書きます)。
また、「分配派」の立場からのリベラリズムに対する見方として、読んでいて一番スリリングに思えたのは、次のような叙述だ。

この立場(リベラリズムを指す:引用者注)は、社会が属性によって編成されていること、身分等、社会的に人の位置があらかじめ与えられていることを批判するところから現われて(中略)存続してきている。だから社会の与えた不利益を取り去り、等しいところに置こうとする。もちろんここから必ず「機会の平等」だけを認める方向に行かなければならないのではない。一人一人が自由であることを最初に置き、そのための資源について社会は責任を持つという主張が対置されてもよいのであり、それは生産者による取得という主張と直接に対立することにもなる。ただ実際には、自由主義は近代的な私的所有の範式、業績原理の方に行った――その歴史的な事情は言えるとしても、それは論理的な必然ではない。(p210〜211)


にも関わらず、「実際には」なぜそちらの方へ行ってしまったのかという問題が、とくに第5章で詳しく検討されている。
これはひとくちにいうと、リベラリズムは、元来左翼的・社会改革的な思想なのに、実際にはなぜ資本主義や市場原理の論理の内部で機能してしまうのか、という問いだ。
それは、いまの具体的な問題としては、「就労支援」に対する批判ということにも結びつくものだろう。
それについても、いずれ詳しく。