前回の記事のブクマコメントに答えて

前回のエントリーに寄せられたブクマコメントに、いま答えられる範囲で答えます。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090330/p1


まず、mujigeさん。

植民地主義清算されない限り、すべての日本人は植民地システム(朝鮮人を否定する集団の論理)から抜け出すことはできない。とすれば、“善意の介入”であれ、それは朝鮮人の自己決定権を否定するものでしかない。


「善意の介入」であっても、たしかに暴力です。それは否定しません。
しかし、植民地主義清算され、日本人が「朝鮮人を否定する集団の論理」から抜け出せなければ、朝鮮人の「集団の論理」の悪い効果を批判することが出来ないとは、ぼくは考えません。
その理由は、エントリーの中に書いたと思います。
この「介入」が具体的に、どういうものであるか、ぼくには言うことはできません。もちろん、こうした「介入」が、基本的人権を侵害することがあってはならないと考えるのは、言うまでもありません。しかしそれは、批判を行うことの必要性と両立することだと思います。
ひとつ考えられるのは、こうしてこういう場に、自分の批判的な考えを書き続けること、これが、(それでもある種の暴力を含む)「介入」だと思います。それは、他人の考えに何らかの影響を与え、動かしていくことにつながりますから(これは集団への依拠から引き離したい、というようなことではありません。)。
ぼくはそれはやはり、人間の関係においては、あるのが当然なこと(しかし、暴力的ではある)だと思います。


次にmojimojiさん。

たとえば、沖縄問題を考える際に「沖縄人」という集団性に依拠する必要はないし、「やむを得ず使われた論理」とは考えない。「日本」に対する対抗上の問題としても。


とくに集団についての考えでは、ぼくとmojimojiさんの考えには、違う点があるかもしれません。
集団の問題というのは、自分にもよく分からないところがあるのです。
ただ、集団の論理が強調されすぎることへの批判は、基本的には、批判者と批判の対象になる人たちの集団との関係性に関係なく、そうしたこととは別の次元でなされるべきだ、という風には思います。もちろん、この批判が、自分たち(マジョリティー)の集団主義を棚に上げた、排外主義的・差別的なものであってはなりませんが。


そして、F1977さん

日本が在日朝鮮人の自己決定権を否定している事を認めながら、まるで在日朝鮮人の集団の論理が自己決定権を否定しているかのように書かれています。目の前で否定されている人を更に否定する事が倫理性なのですか?


集団の論理が個人の部分を侵害する、生の全体を阻害するというのは、在日朝鮮人に限らず、誰にでも起こりうることだと思います。
そのことを批判することが、「目の前で否定されている人を更に否定する事」になるとは、ぼくは思いません。
集団の論理に依拠することで、日本の差別的な社会の中でかろうじて自分を保っている人たちの基盤を否定したり、揶揄するつもりで、こうしたことを書くわけではありません。
むしろ、その人たちの生を肯定したいと思うから書いているのです。もちろんその行為が、何らかの暴力性を含むことは否定しませんが。