『私的所有論』

形容する言葉が見つからないような本である。
本好きの人には、「まずこれを読め」とすすめたい。そう言っても、おいそれと読み通せるような代物ではないのだが、とりあえず当たってみろとも言いたい。
本を読む習慣があまりない人や、何かの事情で読めない、読みにくい人には、この本に書いてあること、またこの本を読んだことの意味をどう伝えればいいものか、かんがえてしまう。
そんな本である。

私的所有論

私的所有論

以下は、ひとつの角度から、本書のごく限定された部分、側面だけを紹介する文章。

導入

1997年に出版された本書から7年後に出された『自由の平等』という本の冒頭で、立岩真也は自分の分配についての主張を『働ける人が働き、必要な人がとる』と簡潔に要約している。
本書『私的所有論』においても、たとえば第8章のなかの医療保険・健康保険について論じた部分で、『強制加入の公的保険、あるいは租税による資源の調達が要請される』(p365)と語るのだが、その採用の理由及び運営の原則は、『各自の将来のリスクを回避するためのものではない』と明言されている。つまり、自分の将来のリスクに備えて保険に加入するということではなく、他者の存在を認めるということを根拠として、公的保険制度への強制加入の必要が説かれるのである。
すなわち、自分のために働いたり(生産したり)、備えたりするのでなく、他人のためにそれを行う。
これは、一見奇抜な考えのようだが、実はそうではない。むしろそれは、立岩が本書で疑問を呈してもいる従来の「福祉国家」における社会保障の基本的な思想と、表面的には変わらない。


たとえば、日本の国民年金の制度にしても、導入された当時の役人や専門家の考え方としては、ヨーロッパの国々におけるような社会保障の考え方、つまり社会のなかで困窮する人が出たときのために、「働ける人」たちが稼いだ金を国庫におさめることで備えるものとして構想されていた。つまり、「困窮した他人のために、働ける人が稼いで備える」という思想だったのである。ところが、いきなりこのような思想を日本社会で唱えても受け入れられず、この制度が機能しないだろうとの配慮から、「自分の老後のために自分が積み立てて、給付を受ける」という形態(いわゆる拠出制)が採用されることになったのである。
だから、『働ける人が働き、必要な人がとる』という立岩の分配論は、社会保障というものの本義に沿った考えだとはいえるが、それでは、従来の福祉国家のあり方と、立岩の思想とは、どのように異なるのだろうか。


結論をいうと、それは(既に書いたように)「他者の存在を認めること」を基本的な原理としている点だ。
つまり、いわゆる福祉国家に代表される従来の社会保障の思想というのは、ある共同体なり国家なり社会なりという枠組みの内部で、その成員間で助け合う、支えあうというものだった。その枠を、たとえば「家族」ととっても、「人類」ととっても同じことである。この社会(共同体)に属する「われわれ」同士が、互いに関与し、支え合おうという思想である。
立岩の社会保障や分配についての考えは、それとは本質的に異なっている。
以下では、この点を軸にして『私的所有論』の内容を紹介することにしよう。

他者

本書は、書名の通り、近代の社会において自明の前提のようにみなされてきた「私的所有」の概念を、批判的に再吟味することを出発点として書かれたものである。
一体何が、自分のものであり、また自分がその処分を決定できるものなのか。著者は、さまざまな角度から近代的な私的所有の考えを批判していく。
さらに臓器移植などの現在的な問題を拠り所として、所有と自己決定についての、自明とされてきた考えを綿密に考え直していくなかで、著者は、「私が作り出し私が制御するものが私のもの」(p7)であるという信念を基盤とする近代的な価値観とは別の価値が、現にわれわれのなかに存在していることを発見するのである。
そのことが、本書の第4章『他者』に詳しく述べられている。この章に書かれている考えが、立岩の思想を理解する上できわめて重要なものになる。
その一部を引く。

私が制御できないもの、精確には私が制御しないものを、「他者」と言うとしよう。その他者は私との違いによって規定される存在ではない。それはただ私ではないもの、私が制御しないものとして在る。私たちはこのような意味での他者性を奪ってはならないと考えているのではないか。(p105)

(前略)私は(私のような、あるいは、私のようでない、しかし私の意のままにならない)誰かがいることによって、生きている。それが私の生体としての生存の必要条件であるわけではない。ただ単に、他者があること、他者があることによって生きているという感覚があるのではないだろうか。私が作れないものを失う時に、私たちはその不在を最も悲しむ。私はそれが好きだったり嫌いだったりするのだが、それに近づく時に、そうした属性ははぎ取られ、他者は在ってしまう。他者は、私が届かないものとして経験されてしまう。(p106)


立岩は、こうしてわれわれが、一面では他者を意のままにしようと欲望しながらも、同時に『他者性の破壊を抑制しようとする感覚』、そして価値観を有していることを見出すのだ。


それ以後の部分では、この(近代的な価値観とは)別の価値にもとづいて、実際にどのような規範が打ち立てられるのかが、詳細、綿密に論じられていく。
それは「所有」に関しては、自然物にせよ生産物にせよ、あるものがある人(生産した人、獲得した人)のものであるという根拠は存在せず、「他者を侵害しない」という原則を認める限りで、私的所有が容認されるという立場である。つまり、他者が「生きていくのに必要な分配」がなされるということが、私的な所有の権利に優先する。
また、重要な点であるが、その人(他者)がその人として生存することにとって不可欠であると考えられるものについては、それをその人から切り離して交換や譲渡の対象とすることは認められない。

例えば、ある者にとって、その者の住まう土地が、あるいはその者の作りあげるものが、単なる生活の糧ではなく、その者が在ることを構成する不可欠のものとしてあることがあるだろう。(p124)


そうしたものを、その人が生きていくための糧を得る手段として、手放し、売買の材料にするということが、認められてはならないということである。その理由は、それを認めることが、他者が他者として存在することを侵害してしまうからである。
このことは「所有」の問題についてだけでなく、「決定」(自己決定)の問題にも関わる。「他者を侵害しない」ということを大原則とするとき、「決定」については何が言えるのか。

「強制がない」から、「自己決定」だから、「同意の上のこと」だから何も問題がないのではない。譲渡を求めるべきではない範囲は、同意がない(強制されている)範囲よりも広い。(中略)その人のもとにあることによって、その人に訪れるものであることによって、その人に享受されるものについては、それが手段として用いられること、用いなければならないことがあるべきではない。この状況で自己決定であるがゆえに許されるとすることを認めない。(p134〜135)


もちろん、これは具体的には、たとえば臓器売買について考え判断するときの基準となる。次のような世界の「現実」を許さないということが、基本となる。

しかし、相手から示される交換の条件を受け入れることなしには、その人が在ることが維持されない場合があるだろう。この場合にはやむをえず彼はその条件を受け入れ自らのもとにあるものを手放すことを選ぶだろう。これもまたその者の決定だから、何も問題はないのか。そうではなく、いずれも――受け取るものは生存していくために、手放すものはよく生きていくために必要であるという違いはあっても――その人が在ることにとって必要なもののうちのいずれかを失うことを選ばなければならないことが悲惨なのであり、この状態は正当化されない。(p205)

贈与ではなく

ところで、自分と同一的な共同体の内部での保障や分配の仕組みということでなく、他者の存在を認めることを原則として掲げる立岩の分配論、社会福祉論は、実践的にはどのような議論につながっていくのだろう。
ひとつポイントして挙げられるように思うのは、著者が「贈与」という行為を、あまり信用していない、または高く見ていないという点である(第2章注14などに詳しい言及がある)。
これは、「贈与」と呼ばれるものの背後に「互酬性」という形での目に見えない交換や権力の働きを見出して批判する柄谷行人の(反転移的な)観点に似ているのではいかと思う。
ともかく、共同体の内部での「共感」や「同情」にもとづく福祉と再分配のシステムが否定され、「贈与」よりも、市場における「交換」や国家による「強制」という契機が新たな観点から見直されるということになる。
他人との「距離」(非同一性、他者性)を尊重する立岩の考え方の特質を、ここに見ることができる。
この本で論じられている事柄は、実践的にも原理的にもじつに多岐にわたっているのだが、ここではとくにいくつかの事例に絞って、このような特質からどんな議論が導かれているのかを見てみよう。


たとえば、「冷たい市場」というアイデア、生産物や生産の価値と人間の価値とを結びつけてしまう近代社会の過剰なイデオロギーを排した、たんに物資やサービスの交換の場としての市場を構想し、それを是認するという考えが示される(第2章、第8章などに言及がある)。
また、国家については、従来の「福祉国家」のあり方から公共サービスなどを大幅に、過激なまでに削減した「再分配しかしない最小国家」のアイデアが語られる(第8章)。
一方で、再分配は、自発的な贈与を原理とするのでなく、国家による「強制」によって行われるべきだとされるが、それは「他者の存在を認める」という大原則から直接に導かれる各人の義務の履行を促す装置として、国家がとらえられているということでもある。


もうひとつ、社会形成の基本的な単位として同質的な共同体を考えないという著者の思想の特質から出てくる重要なことのひとつは、(おそらく)共同体の一形式としての「家族」概念の見直しということである。
これはとくに、「出生前診断」と「選択的中絶」という非常に複雑な問題を扱った、本書中でも特異な章といえる第9章「正しい優生学とつきあう」のなかで、何度か言及されている。
家族の、とくに子に対する親の特権・権利の概念に結びついた、親の負担・義務ということを再考し、それを社会全体の義務としてとらえる方向へ移行していくことで、「私」にかけられた重荷や屈折を解除していく方途が探られようとする。
こうした、人の生存にとっての不要な精神的・物質的重荷を解除していくために、社会の現実の仕組みをどのようなものに変えていけばよいのかという発想が、本書の全体を貫くもうひとつのモチーフだともいえる。

付け加えて

最後に、この第9章「正しい優生学とつきあう」で述べられていることを、少しだけ紹介する。
この章での主張の要点は、「私たち」の価値や都合によって、他者の生存や生の質を決定してはならない、ということである。「選択的中絶」という困難な事柄の考察と判断だけでなく、いわゆる「積極的優生」についても、この立場から考えられ、否定されることになる。
そのなかで、現在の状況を考えるにあたって、非常に重要だと思える指摘がされている。それは、「優生学」的な思想が、必ずしも「国家権力」や「資本」の論理とだけ結びついて機能し、拡大するわけではない、ということである。

(前略)これは、国家がその財源を調達する、その結果、財源、コストについて国家は関心を持たざるをえず、その結果、優生的介入が進行するという論理である。それに問題があるのだから、国家にその役割を担わせることをやめ、私的な部分に委ねることにしよう。とすると、そこに起こるのは、個々人、個々の家族が、コストについて関心を持つ、持たざるを得なくなるという事態である。小さな単位が耐えられる負担は、より少ない。また、負担に耐えられるのは一部の余裕のある者に限られることになる。ゆえに、むしろ生産性を向上させ負担を削減するこの技術への需要は、多くなるはずである。これを認めないなら、負担の義務を負う単位を(国境も越え)拡大させる道をとるしかない。(p425〜426)


つまり、現状では、貧者が(生産性の向上とともに)優生的な介入を希望する、要請する、という事態が生じかねない。いや、実際に生じている。
本書で追求されているのは、そういう現実の状況にどう向き合うかという差し迫った課題なのである。