「貧困」の露呈とその隠蔽

連日ハイチから伝えられる被災の状況は、目を被いたくなるとしか言えない惨状だ。
http://mainichi.jp/select/world/news/20100118k0000e030051000c.html


だがこうした大災害の生じたとき、もちろんその出来事によって被害を被った人たちの救援が急務なのだが、そこで露呈しているものは、それまでの日常の世界に存在していた圧倒的な不均衡や歪みであり、それに対するわれわれの無関心でもあるということも、忘れてはいけない。
つまり、ハイチという国が、この現在の世界の中で極度の貧困に苦しんでいなければ、したがって一定の強度をもった建造物や医療設備や防災システムを持っていたなら、これほどの被害は生じなかったはずだが、それほどの貧困の現実と、それを作り出している世界的な富の偏在というものに、私を含めた多くの人は、このような災害の惨状に接して、初めて気づくのだ。
現代の世界で、災害(や虐殺など)による大規模な被害のニュースが、われわれに気づかせるのは、そういう日常的な現実の歪みと悲惨さ、そしてそれに対する無関心を強いるこの(われわれの)社会体制の暴力性である。


付け加えれば、ここでは富の偏在そのものが主たる問題ではない。
富の偏在が放置されていることが、このように無造作に死に向わされ「廃棄」されるかのように打ち捨てられる(地震のはるか以前から、われわれの世界によって打ち捨てられてきたはずだ)多くの人々を生み出しながら、われわれの中の「生命の重さ」についての感覚を決定的に損なわせていくことこそが問題なのだ。






災害的な出来事が、日常の社会の歪み、とりわけ貧困に関する歪みを露呈させるということは、国内の事例を見るなら、派遣切りと派遣村の存在に関しても、同様に言えることだ。
直接に現れるのは、派遣切りにあって職を不当に奪われ、路頭に迷おうとする多くの人たちだが、そこで本当に露呈しているものは、「派遣労働」という方式を利用して人々を代替可能な歯車のように扱って利益と「生産性」を挙げようとする国際経済の現状、また企業や国家の悪しき体質であり、そのなかで生じている慢性的な貧困、派遣労働者を含む低賃金労働者や、そういう社会のなかで貧困に追いやられながら人間らしい生活の環境、教育や関係性といったものまで奪い取られて、時にはネットカフェや寄せ場から、路上や公園にまで寝泊りの場所を求めざるを得ない人たちを生み出し続けている、この私たちの社会の根本的な体質なのだ。


ここで整理しておくが、われわれが目の前の困窮している人に対して責任を負うのは、われわれ自身がこの社会の現実の構造のなかで、この人に対して何がしか加害的な位置に立っているからではない。
少なくとも、そのことにこの責任の理由が還元されるわけではない。
こうした搾取的・抑圧的な構造(それはこの世界の現実そのものだが)を考えなくても、もしくはこの構造のどこに私が位置していようとそれに関わりなく、私は困窮している人に対して直接に責任を負っている。
だが、この責任のなかで、私がこの人を救うことを選ぶなら、その現実的・究極的な方法としては、この構造を変えていくこと以外にはないはずだ、ということである。




さて、たとえば、このような記事が書かれている。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/localpolicy/347124/
まったくひどい内容なのだが、現在の社会のあり方を是認するために、人間に対するどういう眼差しを正当化しようとしているか、分かりやすい例なので、一部を引いてみよう。

入所者の中には数年間にわたり路上生活を続けていた人もいた。昨年末に職場を解雇されインターネットカフェにいたという男性(46)は「入所者と話していると、3分の1ぐらいは就労意欲がないと感じる」。

 就労を目指す別の男性(51)も「施設では盗まれるのが怖くて現金を持ち歩けなかった。実際は派遣切りなどではなく、一時金目的のホームレスのような人も多かった」とし、「背景や目的が違う者を無条件に大量に入所させたことがトラブルの原因。同じように扱われたくなかった」と苦虫をかみつぶした表情で続けた。

 確かに派遣村を巡る騒動の一因に、不慣れから来る都の対応のまずさもあったことは間違いない。大半の担当職員の本音は石原知事と同様、「言い出した国が自分の責任でやればいい」というものだった。

 本当に「水に落ちた犬を打った」のは誰なのか? それは決して少なくない数の“一部”の不心得な入所者ではなかったか。そして、打たれたのは、真に困窮する入所者に加え、それぞれの事情を抱えながら努力する“村の外”の人々の矜持(きょうじ)だったはずだ。


「矜持」云々は、馬鹿ばかしいので論及しない。
ともかくこの記事を書いた人、載せた人の考えや感覚では、『数年間にわたり路上生活を続けていた人』は、『真に困窮する入所者』には入らないのだろう。
住む部屋もなく、真冬でも路上や公園で生活せざるをえない人たちを、「自由意志で好んでそうしている」かのように見なして、現実の社会の歪みや非人間性から目を反らしたままでいようとするのは、昔からどの国でも見られる欺瞞の伝統的な手法といったところだ。


新自由主義に限らず近代的な社会はみなそうだろうが、新自由主義の社会はとりわけ、国や制度の責任放棄のために「意志」や「自由意志」を都合よく振り回すような体制だといえる。
またこの体制は、そのことによって、自他の生存と関係との非意志的な層に対する感覚を、鈍磨させようともするのである*1


仮に、職場や家族関係や地域社会のなかで行き詰まり、あるいは何らかの事情で、そこから離脱して生きることを、ある人が選んだとする。
だがそうした行動は、この現実の社会のなかで選択されて行われたものである。社会のあり方自体に、この選択と行動を強いた責任が全くないなどといえるか?
その人に職場や家庭から離脱して生きることを強いたものは何なのだ。
そして、そんな社会や(家族を含めた)関係性を、日常的に作り出している張本人は、われわれ自身であると同時に、この社会の支配的な体制でもある。
なるほど、ある生き方を選択したことの責任は、自由の名において、その人自身に帰してもよいかも知れない。だが、ひとつにはこの社会(や家族・集団)を作っている人間としての、またもうひとつにはこの人と現に共に生きている者としての、あなた自身の責任はどうするのだ?


その責任をまともに考えるなら、困窮している人たちを前にしてわれわれがやるべきことは、この社会の雇用や労働や、生産なり消費なりや、また国のあり方、関係のあり方というものを、少しでも変えていこうとすることであり、その手前でより具体的には、「真に困窮している」かいないかの線引きをするのではなく、社会のなかで住む場所も所得も持たない人たちを救うこと、要するに「貧困」に対する対策であるはずだ。
派遣村は元来雇用対策のための場だ」といっても、貧困対策という根本的な責任を放棄したところで行われる雇用対策が、うわべだけのごまかしでない本当に意味のある施策だといえるか?


上の記事の中では、支援団体の人たちが都の広報を不十分と見なして町中でチラシを配ったり、路上や公園で寝泊りしてる人たちにも知らせたということを、不当に入居者の数を増やす行為だったかのように非難がましく書いているが本末転倒もいいところだ。
それだけ困窮してる人が大勢居るということではないか。
路上や公園で寝泊りしてる人にも届かないような都の広報が、十分なものであるはずがないではないか。「無断外泊」者数の出鱈目な発表の仕方を見たら、(残念ながら)信用できない体質が分かるだろう。
そもそも、国が派遣村運営への協力を要請するまで、このような困窮した人たちがあふれている状況を放置してきた都の責任はどうなるのだ?


「働こうとする意志のある者」だけを選別して救済し、労働(市場論理に適合する生産)の場に戻る(加わる)意志のない者は生存の場からさえ公的に排除する。
こうした論理のもとに、派遣村の入居者たちは、元々「生産性を損なうから」という理由で首を切られたのに、所得(つまり生存)の保障は二の次のようにして(非人間的な)「生産」の現場に再び送り込まれようとするわけである*2


派遣村を、あくまで「雇用対策」だとして「貧困対策」から切り離すことで、生活保護受給者が多数に上った今回の結果を、まるで失敗であったかのように言明し、引いては生活保護のような社会保障制度への疑いと、失業者、困窮者、野宿者に対する偏見を拡大しようとする、この記事のような論調は、だがもちろん行政(ここでは東京都)の論理に同調したものでもある。
なるほど、「派遣村」に、「野宿者」と見なされる人、端的にいえば「勤労意欲がなく、自分の意志で流浪のような生き方をしている」と見なされるような人たちが収容されることへの不満は、一般市民のなかにも強く見られるものだろう。
だが、行政というもの、公的な機関というものは、元来われわれが自他の生存の最低限の保障を最重要の目的として存在させているものであり、だから再分配や社会保障によるその実現はもとより、それを阻むような社会的偏見や攻撃から困窮者を守ることをも、その本義とするべきものだ。
少なくとも、建前としてはそうである。
ところが東京都のやってることは、いや実際には東京都ばかりでないであろうが、人々のそうした偏見に乗っかったり助長したりして、貧しい人たちの生存や生活の保障という最低限の責任を放棄するのを正当化しようということである。
この、行政・公的機関のサボタージュこそ、現在非難されるべき、真の怠慢なのだ。






いま必要なのは、困窮者への(雇用よりも)所得保障と、再分配による貧困問題への早急な対処、そして生産と消費のあり方をこれまでの「生産力」至上主義的なものから変えていくということである。
たとえば、消費することを必要とする人たちは多く居るのだが、その人たちにはお金が無いから消費できず、したがって消費全体が伸びない。再分配によってこれを改善する。
同時に、所得保障といわば(誰かの生存のために必要不可欠な場所への)労働力の再配分を組み合わせながら、産業のあり方を、人々の最も切実なニーズに適応したものに変えていく。それと相関して、人々の消費への志向を、市場の過度な呪縛から解き放つ。
人間の意識や存在を経済の現状に合わせるのではなく、経済や市場のあり方を人間に適合するものに変えていく、その意味で経済を、より高度に「生産」的(生産力的、ではなく)なシステムに進化させていくこと。


たとえば市場原理の名の下で拡大していく格差と貧困に関して、「給与の格差を大きくしなければ、生産力があがらず、結局は困窮者を救えない」などと自慢そう(あるいは残念そう)に言う人がある。
だが、高額な報酬をちらつかされなければ、十分な仕事が出来ないということは、(田川建三風に言うなら)人間の「弱さ」、しかもそこに居直ることが生死の危機につながらないような種類の「弱さ」にすぎない。
それは、現状の権力の体制を維持するために、人々がそれを変えることの出来ない人間の本性みたいに思い込まされている、任意の一傾向でしかないのである。
そんなものを理由として、貧困による生存の危機を放置しておくことなど出来ないのだ。

*1:多分このことは、どんなに強調されても足りない。そしてこれが、ネオリベラリズムが近代批判に対する反動と呼ばれることの本当の意味である。

*2:もちろん、人の生存に必要な労働の現場に労働力が足りていないという現実はあるから、今回の派遣村での就職斡旋に関しても、そうしたところに従事することを拒む傾向が強くあるとすれば、憂慮すべきことではある。だがそう思うなら、国や行政はまず介護現場の労働条件を改善することを考えよ、というのだ。