これからの教育への不安な展望

このところ「いじめ」に関連するとみられる自殺のことが、ずいぶん話題になっている。
教育基本法の国会審議に関連して意図的に「問題化」されたのではということも言われてたが、それはどうあれ、過酷な現実が子どもたちを取り巻いてるということは、きっと言えるのだろうと思う。
今の20代ぐらいの人と接していて、いつも考えることは、ぼくが学校の生徒だった頃と、この人たちが経験してきた学校での生活というのは、きっとまったく違うのだろうな、ということだ。社会全体が競争至上主義のようになり、学校がそのなかにすっかり組み込まれてしまった状況のなかで、若い人たちは学校生活を送ってきたんだろう。まったく逃げ場のない精神状態だったんじゃないかと、時々想像してしまう。
しかも、その閉塞した感じは、どんどん強まってるはずだ。


国会で成立しそうな法律のことももちろんだが(新しい基本法では、行政が教育に介入しやすくなるだろうから。そして、行政と競争社会とは今の世の中では不可分に結びついてるのだから)、もっと具体的に外側の社会が教育の現場を飲み込んでいくと実感させる現実がある。
数日前のNHKの朝の番組では、イギリスの学校現場からの報告として「学校監査」というものを紹介していた。これは、国の機関が、すべての学校を定期的に監査する制度らしい。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo6/gijiroku/001/05032901/003.pdf#search='%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%9B%A3%E6%9F%BB'


監査の対象は、学力や教え方だけではなく、生徒の態度や価値観、校長や教員のリーダーシップにまで及ぶという。
監査の評価が低い場合、最終的には閉校ということになるか、学校名や教職員を一新して再スタートということになるそうだ。
イギリスの場合、この制度をとってる理由のひとつに、やはり国や自治体の財政の問題があるらしいが、それは日本でも同様だろう。
上記の資料によると、東京都ではすでに、この制度をモデルにした政策を試験的に行なってるらしい。
その名も、「学校経営診断」。


イギリスの現状を紹介するNHKの番組では、監査される側の学校が過敏になる(当たり前だろうが)ことが弊害としてあげられ、ある学校では生徒全員に「脳を活性化する」というビタミン剤みたいな錠剤を飲ませてるのが紹介されてた。そうやって、テストの成績などをあげて、監査でいい結果をもらおうということだろう。
この制度は「格付けや管理のためではない」とうたわれてるが、どう見ても「格付け」がものをいう市場社会の原理が、すっぽりと学校をおおってしまった姿のように思える。
教育基本法の改正によって、日本の教育現場もこうした姿への変貌が、ますます加速するんじゃないかと思う。


これは、行政の力が制御するなかでの競争の原理が、学校という、これまでは国からも市場からも一定の独立性をもつとされてきた空間を飲み込むということだろう。
子どもたちは、外部(大人の社会)の過酷な現実から、もはや守られなくなる。今よりもいっそう。
産業革命の時代の、炭鉱で働かされている子どもの絵を思い出してしまう。
日本でも、昔の子どもは学校に行かないで農作業とかをさせられてたというが、それは親や村のためだった。これからはそうではなく、資本や国家のために子どものときから動員されるという感じの世の中になるんじゃないか。


一方で、経済的な苦境が続く北海道では、財政難から農村部の公立高校が再編成され、地元の高校を失って下宿通学を余儀なくされる生徒たちが増えているという現状も、メルマガPUBLICITYを通じて知った。
教育の平等という理念、平等が通用しない外部の社会から子どもたちを守りながら育てるための独立性という理念が、いま過去のものになりつつある。
自分たちの手で、それをどう取り戻していくか、ただしたぶん今までとはまったく違った方法で。そうしたことを、考えるべき時代になったのだと思う。


いじめや自殺について書こうと思うことがあったのだが、筆が滑って別の話になってしまった。
それについては、また稿をあらためて書きます。