『「語られないもの」としての朝鮮学校』

友人の著書です。
出来るだけ「さくら」記事にならないように書評を書きます(笑)。

「語られないもの」としての朝鮮学校――在日民族教育とアイデンティティ・ポリティクス

「語られないもの」としての朝鮮学校――在日民族教育とアイデンティティ・ポリティクス



この本を読んでいて何よりも印象深いのは、朝鮮学校の生徒や先生、父兄に限らず、在日コリアンの人たちが抱えている苦悩や困難に対する、著者のまなざしの深さと繊細さである。
著者は、在日の人たちにとっては他者である韓国本国の人であり、また研究者という他者的なポジションに立ってもいるわけだが、同時に植民地化による過酷な「記憶」の共有者でもある。

私は語られないものについて語りたかった。だからといって私がしたいのは、彼らを単純に代弁することではない。それは彼らを他者化してしまう暴力に過ぎないからである。人類学徒として私は、まず彼らの歴史と現実に共感することから始めたかったが、その過程で、私の同志がそうだったように、「韓国人」としての私は在日コリアンと「記憶」を共有している存在であることに気がついた。それから私には在日コリアンについて語ることがとても苦しいことになったのである。(p3)


おそらくこういう著者自身の「苦しさ」との直面が、在日の人たちの置かれた状況と心理に対しての、著者のまなざしの繊細さと分析の鋭さとを支えているのだろう。
その著者によって描き出される在日の人たちの姿には、あらためて胸を突かれるような思いがする。
いたましい努力をして自分が朝鮮人であることを周囲から隠し続けようとする「おばあさん」の話、七夕の短冊に「本名」で署名しながら「日本人になりたい」と書き連ねた民族学級の少年、そして「あとがき」に描かれた、日本社会から加えられる有形無形の暴力に緊張を余儀なくされている朝鮮学校の子どもたちの姿。




だが著者が強調するのは、このようにさまざまに分かれている在日コリアンの苦悩や困難のあり方というものが、いずれも個人の選択によるものではなく、「植民主義」的抑圧の継続という日本社会の現実に主に起因する構造的なものだということである。
著者は、在日コリアンが置かれた状況の困難さを「サバルタン」という有名な用語を使って捉えながら、次のように書く。

エイジェンシーの持つ抵抗の可能性というのは、システム(Other)の呼びかけに素直に振り向かないその行為の主体性であるといっても良いだろう。しかし、なぜ在日コリアンという主体の行為には「主体性」が見えないのだろうか。それは、日本という国家システムにおける「日本人(日本国民、市民)」と「在日コリアン」という従属的両主体が、構造の中で同等なものではないからである。各主体間における権力の差は、在日コリアンサバルタンとして導き、単なるアイデンティティ・ポリティクスだけでは、このような構造からの抵抗、もしくは変革を成し遂げることはできない。(p55)


要するに、この困難の原因は、現実の権力構造にこそある。
そして日本社会の植民主義的な権力構造は、ときには明白に排除的であったり、またときには同化的であったりする、強力なものである。つまり、もっと差別や抑圧の少ない社会でなら有効であるような方法でも、この惨憺たる日本社会の現実のなかでは挫折を余儀なくされるということだ。
第1章で著者は、民族学級(日本の公立学校における、在日の人たちの民族教育の仕組み)の歴史と現状や、在日の人たち(いわゆるダブルの人たちも含む)によるいくつかの「自由主義的」(個人を重視する、という意味)なアイデンティティ・ポリティクスを検討しながら、それらの限界について、次のように書いている。

在日コリアンの側で新たに主張する多民族共生の民族教育は、上のような排除と包摂のプロジェクトに加担するという新しい同化の危険性を抱えている。すなわち、在日コリアンの民族教育が、多民族共生を志向するため、民族教育内部の共同体主義的要素を廃棄した結果、日本社会の共同体主義イデオロギーを逆に強化してしまうということだ。(p105)

この章でも確認したように、アイデンティティ・ポリティクスとしての民族教育は、民族運動内部における「民族」概念の「ズレ」を認めない限り、多様な「個人」を抑圧する共同体主義の暴力に堕してしまう。しかしだからと言ってその「ズレ」を認め、それに従った戦略変更を実践するならば、マイノリティの防衛というアイデンティティ・ポリティクスの武装解除に繋がりかねない。(p108)


このジレンマを乗り越える可能性をもった、現実にはほとんど唯一の道として(それを「唯一」のものにしているのは、もちろん日本社会の暴力性だが)、著者は朝鮮学校の存在を捉えている。

しかし、ここでもう一つの「国家語」によって構築される構造を想定すると、解決の糸口は見えてくるのではないだろうか。つまり、二重的構造の創造とそれぞれの構造で交差的に主体化することから、個人を抑圧することもなく、また個人がアトム化されることもないまま、より柔軟なアイデンティティを持った主体性が開かれるのではないかということだ。(p108)


朝鮮学校に対する肯定的ないし擁護的な議論は、ふつう「本質主義などの問題点はあるかもしれないが、現実の差別構造のなかではやむをえない」とか、「問題があっても、それなりの良さもある」、もしくは「こういう境遇に置かれた人たちにしか見られない素晴らしさがある」といった主張に終わりがちなものであるが、著者はそこから一歩を進めて、その特有的な条件を定式化して提示し、抑圧構造のなかで「柔軟な主体性」を育むための普遍的なモデルとして示そうとしているように思える。
これは、この本のたいへんユニークなところであろう。




このことに関して、第3章で著者は朝鮮学校の教育の実践課程を分析して、三つの特徴を挙げている。つまり、分離主義、集団主義、それにパフォーマンス(演劇性)の三つがそれである。
このうち分離主義については、なぜ朝鮮学校がそのような教育のあり方を採用することになったのかが、第二次大戦終結から朝鮮戦争への時期の弾圧と抵抗の歴史を辿りながら、詳細に検討されている。ここでも著者の視点には独自性があり、この部分だけでも多くの議論を呼ぶに値するものだと思うが、ここでは触れない。
ともかく、分離主義がもたらしたアイデンティティ・ポリティクス上の積極的な事柄として、それが象徴操作による観念的な分離(「民族学級」など)にとどまらず、「ハッキョ(学校)」という物理的「解放空間」の確保を伴っている点が強調される。

このように分離された空間の中で、朝鮮学校の生徒たちは日本社会の中では経験することのできない「朝鮮民族としての生」を日常的に否応なく経験するようにになる。(p214)


二番目の集団主義についても著者は、『「日本社会の中で民族を守る」という日常化された危機意識』が、朝鮮学校の教育の共同体主義イデオロギーを強化させていることを強調するのだが、そうした集団主義への強い傾向にも関わらず、朝鮮学校の生徒たちが示す強い個性は、どこから来ているのかと、著者は考える。
そこで見出されるのが、三つ目のパフォーマンスという観点である。


著者は、朝鮮学校において朝鮮語によって行われる公的領域の活動が、本質的に「演劇的」であることを指摘する。そこから自我の二重性が発生するが、それによって生徒たちの自我が危機に陥るということはない。なぜなら、その「ハッキョ」という空間は、彼らにとって仮想ではなく、リアルなものだからである。

朝鮮学校の生徒たちにとって、朝鮮学校の公的領域の生活は仮想(virtual reality)ではない。それは、私的領域として日本社会という世界が実在することと同様にリアルなものである。したがって、朝鮮学校の生徒が自由に往来可能な二つの世界においてそれぞれパフォーマンスを行う時、行為主体として生成されるアイデンティティ(identities)の正当性(legitimacy)は、「舞台」の実在によって保証される。(p218)

このような状況において、朝鮮学校の生徒たちにとってアイデンティティは、努力して志向しなければならないものではなく、その時々の状況によって自分で管理していくものとなる。金泰泳が探り出そうとしていた在日コリアンの「柔軟でしなやかなアイデンティティの可能性」は、このように、朝鮮学校の現場におけるアイデンティティの管理(マネージメント)実践のなかに見出せるのである。(p219)


こうして、次の第4章では、「アイデンティティ・ポリティクスからアイデンティティ・マネージメントへ」という著者の見通しが、明確に述べられることになる。
ここでも前提となるのは、たんに個人的であったりリベラルな(多文化共生的な、あるいはポストモダンな)戦略によっては、自我の「不安」を取り除くことが出来ない、植民主義的な日本社会の抑圧構造の頑強さである。
朝鮮学校の教育は、こうした植民主義の暴力への対抗として、本質主義に陥る危険を持っているが、その危険は、演劇性と(日本語と朝鮮語の)二重的言語実践による二重的現実認識によって大きく軽減されることになる。

『このような認識構造は、戦略的に本質主義に頼らざるを得なかったアイデンティティ・ポリティクスに露呈されている行き詰まりを回避するアイデンティティの新しい可能性を開いてくれる。つまりアイデンティティをめぐる戦略における本質主義をかわしながら、個人的次元へと脱構築されることをも避けることができる、責任性(能動的意図)のある主体(エイジェンシー)によるアイデンティティの管理能力である。(p228)』




最後に、この本がわれわれに突きつけてくるものは、まず何よりも、植民主義に深く根差した日本社会の暴力性である。
朝鮮学校の子どもたちに限らず、この本で描かれた在日の人たち(それに限らないが)の苦悩と困難は、そしてその歴史と現在のすべてが、われわれがそれを直視して立ち向かうべきこの国の暴力性・差別性の実態を、読者であるわれわれに突きつけている。
そのうえで、著者がおそらくは普遍的なモデルとして提示しようとした朝鮮学校の教育の積極的な側面を、われわれは受け取る能力があるであろうかと、考えてみる。


思うに、人間が生きていくには連帯(集団性)が必要である。というより、集団性こそ生の基本的な条件のひとつだろう。
だがほんとうは、その連帯のための根拠が何らかの属性である必要はない。属性は元来は必要でなく、ただ連帯があればよい。
だがそのためには条件がある。それは、差別的な構造の加担者となることなく生きる道を、われわれ自身が選び取って実行するということである。
朝鮮学校に関わった人たちは、たとえ強いられた結果であったにせよ、その道を選んで生きてきた。おそらくそれが、この連帯に内実と、生の解放への可能性を与えているのである。
それを思えば、著者が本書で提示しているものを、受容可能な「普遍的」なものとなしうるかどうかということは、われわれ自身の決意と行動にかかっていると言うべきなのは明らかである。