大統領選の結果を知って最初に考えたこと

韓国の大統領選の結果をうけて、特に書いておきたいことがある。


それは、日本と韓国の新政権の誕生によって、日本国内の朝鮮学校が、かつてない程の窮地に立つだろうということである。
民主党政権下においても、排除と迫害・圧迫にさらされていた全国の朝鮮学校は、安倍政権の下ではさらに過酷な状況に遭遇するのは避け難いと思える(大阪のような首長と与党が居るところではなおさらである。)。
また韓国の新政権は、朝鮮学校の存在に対して好意的であるはずはないので、少なくとも自分たちの勢力下に置こうとしてさまざまな圧力をかけてくることが考えられる。だがもっと大きな可能性は、これをすっかり切り捨ててしまうことだろう。
いずれにせよ、朝鮮学校の存在を容認するような政治的条件は、ほとんど無くなりつつある。
朝鮮学校は朝鮮本国からは独立した存在であるとはいえ、日本と朝鮮民主主義人民共和国との間にまともな関係が形成されていれば、それが存続への有利な条件になるという可能性もあるが、もちろん現状ではそんなことは望めない。
また、国際政治の力学に左右される場である国連のような国際機関が、何らかの拠り所となってくれることを期待するのも、甘すぎるであろう。
朝鮮学校は、元々日本の教育制度からも社会からも排除された存在であり、常に攻撃にさらされてさえいるのに、それを支えてくれそうな外部の政治的拠り所を、ほとんど何ひとつ見出せなくなったというのが、現状なのだ。


朝鮮学校の子どもたちや、そこに関わる人たちが、この苦境を生き延びることを支えることは、僕たち自身の生の実質と自由とを形づくり、保証するものだと思う。
この人たちを迫害し、苦境に立たせているのは、僕ら自身を包囲し苦しめている、国内の、また国際的な不正義なのである。だから、あるべき仕方で彼ら・彼女らに連帯の手を差し延べ(しかし、僕たちはいつも、差し延べられている側ではないか?)、共に生き抜くための闘いを闘おうとすることは、僕ら自身の生の解放に通じることであるはずだ。いやむしろ、そうした連帯への姿勢を通してしか、僕らがほんとうの意味で生きていく道は開けない。そういう時代に入っていると思う。


自民党はすでに、民主党政権が行った高校無償化そのものの「見直し」を示唆しているらしい。
階級社会の固定化を密かな至上命題とする政党にとっては、高校無償化のような政策が邪魔であるのは当然だろう。そうした政党を絶対的な与党の座に据えたのは、小選挙区制の詐術的な非合理性を差し引いてもやはりわれわれ有権者であるという事実は認めねばならない。
だが、もし高校無償化政策がこのまま廃止になるとすれば、朝鮮学校の生徒たちは、ついに一度もそこからの不当な排除を解消されることはないままに、この排除と差別のさなかに永久に取り残されるということになる。それと同時に、下部の階級に属する国民の総体が、この被差別の状況に投げ入れられるのである。
権力に支配され、命さえ合法的に奪われる社会の下部に、こうして僕たち自身も固定されていく。
それを拒むためには、僕たちはまず何よりも、すでに朝鮮学校の子どもたちや親たちが置かれている、この排除と差別の不正義に立ち向かわなけばならないのだ。その、すでに存在してきた不正義を指弾することで、はじめて僕たちは僕たち自身を飲み込もうとしている、この巨大な不正義の構造と対峙することができる。
それは、そうすることで僕たちが、国家や資本や社会全体の歯車として加担している、差別と迫害の構造の外に出て、そこから自立することになるからである。
国家や資本に殺されないためには、まず自分が殺す側に立つことをやめなければならない。
無知や無関心や容認という仕方によってでもその迫害の構造に参与している状態から、あえて脱け出さなければならない。
それは、自分自身もまた、排除や迫害の危険に直面するという怖さを意味するのだが、それをすでに実感しながら生きているのは、朝鮮人やマイノリティであるあなたの隣人たちなのだ。つまりこの恐怖には、この社会のなかで人間として生きていくということの、本質的な何かに通じるものがある。
その怖さをまるで実感しないままに死んでいくことの方が、本当ははるかに悲惨で恐ろしいことなのかも知れないのである。