蟻の山登り・ジジェクを読みながら

先日もちょっと触れたが、このところ、今年になって文庫化されたジジェクの『否定的なもののもとへの滞留』を、えっちらおっちら読んでいる。


この本、英語の題は『Tarrying with the Negative』というんだそうだ。日本語になると、なんでこんな難しそうな変な言葉になるんだろう。まあ、好きなんだけど。


旧ユーゴだったスロヴェニア共和国の出身である著者が、ソ連・東欧圏の体制崩壊や、内戦の勃発・激化という状況のなかで書いた分厚い本である。ジジェクというと、「ヒッチコックを語るラカン主義者」みたいなイメージがあり、実際この本のなかにもヒッチコックフリッツ・ラングや、『エイリアン3』とか、マスカルチャーから色んな事例が興味深くひかれているのだが、なんといってもこの本ではカントとヘーゲルの哲学についての記述がすごいボリュームだ。
ラカンが分からないという以前に、カントやヘーゲルをほんとうには知らないので、ぼくには書いてあることの大半はよく理解できない。よく理解できないものを、とりあえず目の前にある文の意味だけを逐語的にたどって、岩肌にへばりついて高山をよじ登るみたいにして読んでいくと、思わぬところではじめて見る高山植物が目にはいったり、ぐんと見晴らしのいい場所に出たりするのが、結構快感なのだ。
そういえば大学時代、ぼくは山岳部だった。


そういうわけで、昨日今日読んだところから、少し抜粋。
ひとつは、ヘーゲルにおける可能性と現実性との関係についての文章。

しかし、別レヴェルでは、可能性はすでにして、その当の可能性という資格自体において特定の現実性を有しており、このことがその現実化へのさらなる要求など何にせよ不要であることの理由となる。自由の理念は一連の失敗を通じて自らを実現するとヘーゲルが指摘するのはこの意味においてである。自由を実現するためのいかなる個別の試みも失敗するかもしれない。この観点からすれば、自由は空虚な可能性にとどまる。だが自由の実現へ向けての絶えざる闘争それ自体が、自由の「現実性」を、自由とは「単なる概念」ではなく、現実の本質自体に関わるある傾向を顕示しているという事実を証し立てている。(p304〜305)


ぼくはこれを、たまたま国会での教育基本法改正案可決のニュースを聞いた直後に読んだ。
こういうのを、「現実的なものの応答」(ラカン)というのか?


もうひとつは、これは昨日のエントリーの最後で引用した、上山さんが書いておられた事柄に関係するかもしれないと、今日読みながら思ったくだり。

ラカンにおいては、欲望は何らかの「病理的(パトローギッシュ)」(具体的〔実定的〕に与えられた)対象へと向うものではなく、登場と停滞とが一致するような対象、自らの消失の痕跡そのものであるような対象へと向うものと措定されることで、「純粋」なものとなる。ここで留意すべきは、こうしたカント的立場と、すべての感覚的特殊性への執着から解放され無限を追及する(個人的人格への愛から〈美のイデア〉そのものへの愛へと高まるプラトン的愛のモデルがそうであるように)伝統的「スピリチュアリスト」の立場との間の差異である。カントはこのような精神化された天上の欲望を自分なりのかたちで表現し直すようなことはしない。カントの「純粋欲望」は主体の有限性の逆説のうちに踏みとどまるのである。(p328)


これは、ぼくも「カント・ラカン的」な「純粋欲望」と、プラトン的なものとを、混同しそうになってた。
ぼくが、あの上山さんのエントリーへのブックマークで「愛」と書いたのは、前者の意味で欲望を純粋化するもの、という意味だったと思う。そのためには、『主体の有限性の逆説のうちに踏みとどまる』必要があると、ここでは書かれているのである。
この(有限性の逆説のうちに)「踏みとどまる」ということは、この本全体の大きなモチーフでもあると思う。
現在の東アジアに生きているぼくたちは、ジジェクからのこのメッセージを、どのように聞き取ることができるか。