大阪府の朝鮮学校補助金不支給について

http://mainichi.jp/select/wadai/news/20120319mog00m040015000c.html


大阪府は、元々補助金を支給しないですむ口実を探してたのだろうから、今回持ち出してきた理由の理不尽さに、ことさら驚くことはないのかもしれない。
「職員室から肖像画を撤去しろ」という言い分自体も難癖としか言いようのないものだったが、それが満たされると、事前に「支給する見通し」という発表を行って、「支給しないですむ理由」の公募みたいなことをやった。
その挙句に出てきたのが、この話である。まあ基本、理由などはどうでもよかったのだろう。



だがそれにしても、生徒たちが自分の国を訪れたことを理由にして、補助金を支給しないというのは、この子たちの祖国訪問を日本では公共に反する行為だと決め付けたのと同然で、その酷さには体が震えるほどである。
子どもらが自分の国を訪問する権利を認めること、祖国との自由な往来を保障することは、人権と呼ばれるもののなかでも、もっとも基本的なことのひとつではないか。
まして、この子たちの祖父母たちが祖国を離れざるをえなかったのは、また(今や「制裁」という名目によって、なおさら)その国との往来が極めて困難になってるのは、日本の植民地支配と近年の排外主義的な政策に原因と責任があることではないか。
そんな酷い状況を作り出しておきながら、そのなかで苦労して祖国(この言葉に抵抗のある朝鮮人の人も居るかもしれないが)を訪問した生徒たちの行為を反公共的だと決め付けて、補助金を支給しない理由にするというのは、厚顔無恥にも程があるというものだ。


補助金という制度には、植民地支配の補償を行おうとしない日本政府に代わって、自治体が民族教育の保障を行おうとする意図があったと思う。
大阪府の行為は、そうしたこころざしをみずから否定して、マイノリティの人たちの権利侵害に本格的に手を染めるばかりか、生徒たちの祖国との往来の自由と、自分の祖先たちの土地への思いを公的に否定することで、その人生に汚辱を浴びせるものだ。
(幸運にして)「ハシズム」がいつか去って、自分たちは元の善良な公務員や市民・府民に戻ろうとしても、この行為によって傷つけられた子どもたちの人生は元に戻らないのだということの重さを、政治家・役人と有権者は銘記するべきだ。



また報道で伝えられてる「忠誠歌」を歌ったから云々というのも、「敵性国家」の政治的行為の一部であるというイメージを強調するための付け足しだろう。他の国のことであれば、こんなことは問題にもならない。日本が不当にも敵視している朝鮮という国のことだから、このように論われるのである。
それに、先ほども書いたが、朝鮮学校の子どもたちが常に政治を意識せざるをえない状況に置かれてるというのは、そもそも日本の責任だ。日本の植民地支配や、戦後の植民地主義的・差別的な政策がなかったら、朝鮮学校の置かれた状況とその教育は、まったく違ったものになっていただろう。
無論これは、朝鮮学校に限らず、朝鮮本国に関しても言えることである。彼我の軍事力・政治的存在の大きさの違いを考えてみればよい。
日本の社会は、自分たちが行使してきた暴力の巨大さには目を閉ざして、いや、目を閉ざし続けたいがゆえに、ことさら朝鮮という国の脅威・異常性や、朝鮮学校の政治性を非難する。そして、その自らが作り上げた「危険」や「脅威」をテコにして、自分たちの暴力を正当化し、さらに大きな暴力(軍事化)を行使しようとする。また、そういう国のあり方と同一化することによってしか自分を尊重する気持ちがもてないような人たちを大量に作りだすことで、この日本という国は統治されているのが現実だ。
なんといっても、この構造が根本にあることは認めねばならない。
朝鮮学校の子どもたちへのバッシング、そして朝鮮本国に住む人たちへの「非人間化」的な眼差し(共感不可能な存在として見出すこと)は、そのための生け贄のようなものなのだ。


日本人は、自分たちの欲望と暴力性を満たしたいがために、朝鮮人を生け贄にすることを、これ以上続けてはならない。
とりわけ、自分たちと同じ地域に住んで学校に通う子どもたちを、植民地支配の時代と変わらない自分たちの醜悪な政治の犠牲にし続けることだけは、やめなくてはならない。
隣に居る他の人間を生け贄にすることでしか生を実感できないような人生を生きさせられている自分というものを、変革していくべきなのだ。