アリアドナ・その3

このところ二度ほど、チェーホフの短編「アリアドナ」について書いたけど、通俗的だがすごく考えさせる小説だ。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20061110/p1
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20061111/p1


主人公のシャモーヒンが言うように、男が、一度は自分が惚れた女について不満を抱くようになり、裏切られたとか失望したとか、悪口を言って回るようになるのは、もともとその女を理想化していたときの眼差しが差別的、少なくとも相手を完全に対象化して恥じるところがなかったということから来ているのだと思う。
男は、そのことを認めたくない、相手を理想化していたときの自分の「気持ち」の純粋性が、相手との非対称な社会的関係の上にあぐらをかいていたことの産物であると認めたくないから、そして自分が今居る居心地のいい精神的・社会的位置を手放したくないから、自分は善で相手に一方的に非があるという物語を、他人に語ることで自分自身も信じこもうとするのだろう。
男は、相手を理想化していたときの、自分の純粋性のようなものを信じつづけたいのである。
これがさらにこじれるのは、悪口の対象が特定の女性から、女性一般へと転じてしまうことによってだ。
ジジェクの『否定的なもののもとへの滞留』の註のなかに、こういうふうに書いてある。

ユダヤ人は搾取者で、陰謀家で、汚く、好色・・・である」といった言明が、「彼が搾取者、陰謀家、卑怯者・・・であるのは、ユダヤ人だからだ」という言明に反転するとき、われわれは同じ内容をいい方を変えていっているだけではないのである。その反転によって、新しいなにか、すなわち対象小さなaが生み出される。(酒井隆史田崎英明訳 ちくま学芸文庫版 p509)


『女はうそつきだ、こせこせしてる、虚栄心が強い、不公平だ、知性が低い、思いやりがない』(「アリアドナ」)、そして女は男に比べて「はかりがたく低いんだ」という一般的言明への「反転」は、しかし容易に生じうる。
それは、社会そのものが、もともとそういう枠組みをもっていて、男はとくにその事実に無自覚に生きてることが多いからだ。
だから、簡単に「理想化」もしてしまうのか。いや、理想化そのものが悪いというより、その「理想化」によって自分の何を守ろうとしていたのか、そう自問する勇気を持たないことがいけないのだろう。
それを回避しつづける限り、かつて愛した対象を攻撃するという責め苦から、人は逃れられないものだ。


追記:文中、ジジェクの本から引用したところは、前段の単に陳述的・一般的な言明から、具体的な差別の暴力をもたらすような剰余(対象小さなa)をはらむ後段の言明への「反転」について語ってる文章だと思います。
ぼくの文脈とは合わない内容なのですが、ぼくの早とちりで引用してしまったので、参考の意味で、そのままにしておきます。