「非モテ3」論への違和感・メモ

杉田さんの『無能力批評』のなかの「「男性弱者」と内なるモテ幻想」という文章について、一点だけ感想を補足します。

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080609/p1


先日も書いたように、杉田さんは「非モテ3」を「性愛的挫折(恋愛未経験/失恋を含む)がトラウマ化し、人格の重要な一部となり、かつ、非モテ意識に苦しめられ続けること」(p301)と定義するのだが、そのうえで、自身の「非モテ3」の日々を回想して、「その背後にあったもの」を次のように析出している。

ぼく固有の男としての弱さの核を異性から肯定してほしい、そこを認めてほしい、という欲求ではなかったか。(p304)


この「異性」というところが、ぼくの感覚とは違う。
ぼくの感覚では、ここは「性的な対象」(である人・女性)ということになる。つまり、自分の欲望の問題になる、ということである。
杉田さんの書き方だと、「男」としての自身が、女性(異性)という他の属性集団から肯定されない(認められない)という、いわば集団的な問題、私という個人の欲望からは離れた問題みたいになっている、という印象を受ける。
だがぼくの感覚では、「非モテ」は、ぼくという個人の欲望(性欲)のあり方と切り離せない。だから、これを承認についての社会的な問題に接続するのは無理がある、というか少し違うのでは、と感じられる。


ここに少し、違いがあると思った。