前回の補・暴力、レイプなど

また前回の付けたしみたいになるが、思いついたことがあるのでメモしておく。

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20081121/p1


前回、『全体性と無限』(岩波文庫・下巻)の次のような箇所を引いて、レヴィナスの言う「暴力」について考えた。

私が殺すことを欲しうるのは、ただ絶対的に独立した存在だけである。つまり、私のさまざまな権能を無限に踏み越え、しかもそのことによって私の権能に対立するのではなく、なにかをなしうることの権能そのものを麻痺させる存在だけなのである。<他者>は、私が殺すことを欲しうるただひとつの存在なのだ。(p40)

一箇の全体性をかたちづくる――言い換えればそれを再構成する――諸存在のあいだでは、暴力は不可能である。それでは他方、暴力は分離された存在のあいだでなら可能となるのだろうか。分離された諸存在は、たとえ暴力的なそれであれ、どのようにして関係をとりむすぶことができるのであろうか。ちなみに、戦争による全体性の拒否は、関係の拒絶ではない。戦争においては敵対者たちがたがいにもとめあうからである。(p97)


上の方の文は、「殺人の不可能性」について述べられたものだが、この「不可能性」は、現実に殺人が行われるということを排除していないと思える。
いずれにせよ、どちらの文でも、殺人や戦争について、「欲しうる」とか「もとめあう」といった言葉が、それも肯定的な意味で使われていることが、やはり奇異である。


そこで、「暴力」について、ぼく自身の実感から少し考えてみる。
よく、「弱者に向けられる暴力は卑劣だ」という風に言われる。
だが、粗雑な言い方になるけれども、暴力の、とりわけ人間の暴力(と、限定することが妥当か分からないが)の特徴のひとつは、「弱いものにこそ向けられる」ということではないだろうか。
ここで「弱いもの」というのは、物理的に弱い、傷つけやすい、ということと同時に、対象化しやすい、という意味でもある。
人は、それこそレヴィナス流に言えば、「顔」が不在であり、「対象」としてのみ相手が見出される場合、その対象を攻撃するのだ、とも思える。
だが、「顔」と「対象」とは、そのように分けられるものではないかも知れない。むしろ「顔」こそが、暴力を誘発する源なのかもしれない。


ともかく、私が「弱いもの」を攻撃するのは、そこに傷をつけたいということが、重要な理由である気がする。
ここで、私にとっての「弱いもの」を、性的な対象としての「女性」に特定してみる(この特定は、恣意的なものではないが、それには後で触れる。)。
私が女性になんらかの暴力をふるうのは、相手の体か心になんらかの傷をつけ、それを残したいからであり、つまりそこには、自分の存在を(相手の心に)刻み付けたいということ、この承認の願望のようなものが働いている。
その究極の形は、逆説的だが、相手を殺してしまうことだろう。というのは、殺してしまえば、相手には私のことを「忘れてしまう」時間は残されないので、自分の存在を相手の心に永続的に刻み付けておく確率は100%となるからである。ストーカー殺人には、こうした心理が働いていると考えられる。


レヴィナスが殺人などの暴力について述べている「欲しうる」とか「もとめあう」という言葉を、こうした承認の次元のこととして捉えるなら、それなりに理解できる。
この理解の仕方が妥当かどうか分からないが、ただ、この後の(『全体性と無限』の)第4部における性愛や生殖をめぐる議論とのつながりで、この暴力の問題を考えることが可能ではないかと思うのだ。


つまり、レイプのことを考えてみる。
レイプと、夫婦や恋人同士の性交とは、形式的には同じだといえる。
ただ、前者は暴力であり、後者は暴力でないと(一般には)される。
だが、いずれにせよ、それは生殖に結びつきうる。
レイプをする人が、その行為を行うとき、たんに欲望の充足のために行うというより、そこに上述の承認の願望のようなものが含まれていると考えられよう。
すると、そこには、相手を妊娠させるという形で、その承認の願望を満たしたい、ということも含まれる場合があるはずだ。これは暴力だが、このような暴力性は、レイプ以外の「普通の」性交には、まったく含まれないであろうか?
もし含まれるなら、こう考えられる。
生殖(それをレヴィナスは、われわれの生の最も根源的・肯定的な要素とみなす)と暴力とは、もともと分かちがたく結びついているのだ、と。


「もとめあうこと」「欲しあう」ことは暴力という形をとりうるのであり、それが現実に暴力(殺人、戦争、レイプなど)として現象することは非難されるべきだが、そのような形をとってでもあらわれる人間同士の生身の関係への意志には、肯定されるべき何かが必ずある。


レヴィナスは、このような意味で(もちろん、一人の男性として、おそらく異性愛者の男性としてであるが)、人間の生と生殖における、根本的な要素として「暴力」というものを捉えようとしたのではないか?
もちろんこれは、暴力が容認される、ということではない。
ただ、われわれの生は、常に否応なく暴力的だ、ということであろう。
すると、この根源的な暴力を、どこに差し向けていくべきかということが、やはり倫理的な問いになるのだと思う。