欲望とその権能

『キリンが逆立ちしたピアス』より


 「欲望は禁止できない、しかし…」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080214/1202980795


児童ポルノ規制の問題について書かれた東浩紀氏の文章を紹介しながら、書き手のfont-daさんは、「欲望は裁けない」という東氏の言明に基本的には賛同しつつ、以下のように語る。

(前略)私もこれに賛同する。暴力を振るうことは禁じることができるが、暴力を欲望することは禁じられない。


 その上で、私はその立場にあるのならば、次の責務があると考える。それは「欲望を行為に移さないシステムを考える」という責務である。相手を傷つける欲望を持っていても、その欲望をコントロールする方法が必要である。その方法を、いかに習得できるのか、という問題は、今、まったく解かれていない。欲望を肯定し、行為と切り離す以上、いかに切り離せるのかにも言及する必要があると考えている。


同感であるが、ここで思うことがある。
それは、欲望はたしかに裁けない(裁くべきではない)のだが、それは欲望が分析(対象化・批判)できない(すべきではない)ということではないだろう、ということである。
欲望をコントロールするためには、それを出来るだけ明確に対象化して、批判可能なものにしておく必要があるだろう。
もっと直截に言うと、欲望の特定のあり方そのものは批判できないにしても、そのあり方が含んでいる現実の権力関係の要素を、そこから分離して対象化し、批判することによって、私(たち)が欲望を、いやむしろ「暴力」をコントロールする力を得ることは試みられてよいだろう、ということである。
欲望は裁けないが、欲望のよってきたるところ、それが帯びている社会的な性格に光を当てることはできる。むしろそのことが、欲望とそこから生じる現実的な「力」を、「私たちの」ものとする可能性を開くだろう、ということである。


そうするためには、われわれを多かれ少なかれ支配している欲望の、社会的な政治的な側面について考える、ということが不可欠であると思う。
現在の日本では、この欲望をめぐる「権力関係」は、たとえばどのような形態をとっているだろうか。


具体的にみてみよう。
たとえば、方々で話題になっているが、沖縄北谷町での米兵による性的暴行事件を扱った週刊新潮の記事の、宙吊り広告の見出しである。
ここに載せることもはばかられる文だが、この社会(われわれ)の大衆的な欲望のあり方が非常に露骨に示されているものだと思うので、あえて載せる。

「危ない海兵隊員」とわかっているのに暴行された沖縄「女子中学生」


これはたしかに醜悪なものだが、たとえば同じ事件に関する産経新聞この記事のような(恥知らずな)政治的意図を明白に示しているものとは、それが意味するところは、やや異なるのだろうと思う。


この新潮の広告の見出しが示していることについて、書くまでもない自明なことだと思うが、あえて言葉にしてみよう。
この見出しでは、カギカッコつきの「女子中学生」という言葉と、その直前の「沖縄」という言葉とが、ともに読者(大衆)のある形態の欲望を肯定し扇動する意味合いで用いられている。
それは、ひとくちに言うと、コロニアル、というしかないものだと思う。
つまり、「沖縄」も「女子中学生」も、ともに支配者である「われわれ」の欲望を受け入れ、満たしてくれる存在であってほしいという大衆(社会)の欲望にうったえかけ、それを肯定し、煽り立てるような意図で、この見出しの文は作られているのだ。
また、この見出しに示された被害女性への揶揄的な表現は、相手を対象化して支配する場所に位置し続ける自分たちの特権性を、揶揄という行為を通して確認し強化したいという読者(大衆)の欲望に訴える意味を持っている。
言うまでもなくここでは、「性暴力」や「セクハラ」の被害を告発しはじめた女性たち(特に中学生や高校生)の存在と、基地の押し付けに抗議する沖縄の人たちの存在とが、「支配されるべき者の反乱」として、苛立ちとともに重ねあわされているのである。


これは、特殊な「政治的・イデオロギー的な読解」ではない。われわれの欲望というものが、またそれを通した他者との関係性というものが、徹頭徹尾、政治的でイデオロギー的なものに支配されているという現実こそが、自覚(批判)されるべきなのである。


こうしたものが、われわれの社会に流通している支配的な欲望の形であり、それは他者の生の欲望を通じた対象化という意味で、コロニアリズム、と呼ぶべきものだと思う。
われわれの欲望とわれわれの他者との関係が、否応なくこうした形をとってしまうのは、この社会全体がそうした権力関係を土台にして成り立っているからである。
そうすると、ここで「欲望は裁けない」という言明によって守護されることになるのは、欲望の固有性のようなものではなく、現実の社会を支配している権力関係の方であろう。もっと正確に言えば、「私の欲望」を隠れ蓑にして、社会全体の支配的な権力関係が温存されることになる。
この権力関係を可視化し批判することを含まないような思考は、決して他者との関係の(唯一かもしれない)方途としての「私の欲望」を守ることは出来ない。
これが、ぼくの考えである。



だが、欲望がコロニアルであったり、さまざまな政治的・社会的な性質を帯びているということ、それはそんなに批判されるべきことであろうか。むしろ欲望とは、そうした社会的な他者性を否応なく帯びているからこそ欲望なのであり、純粋な欲望(関係性)など、そもそも幻影(イデオロギー)に過ぎないのではないか。


しかし、次のように言える。
欲望が現実の権力関係(構造)に支配されていると言うとき、これは、「そういう構造があるから、必然的に私たちは、そういう欲望のあり方をしているのだ」というだけの意味ではない。むしろ、「私たち自身が、個々の欲望をとおして、そうしたコロニアルな装置を作動・存続させているのだ」ということである。
私の欲望が、日々刻々、そのような抑圧的な現実を構成し強化している。
ということは逆に、私にはこの欲望をとおして現実の構成を変えていく力がある、ということでもある。
つまり、欲望が他者とのあり方を決めたり、ときには破壊したりする力なら、その欲望の現実に対する権能を、現実の権力関係の検討と批判を通して、私たちは自分のものにすることが出来る、ということだ。
私たちの欲望の社会的な性質を自覚し、批判していくということの意味は、それである。
私たちは、欲望を構成しうる社会のあり方そのものの批判と変革へと、自らの欲望の権能を差し向けることにより、他者との(現在よりは)よりよい関係性を可能にするような社会と、したがって欲望の性質(形態ではなく)を作り出すことができる。つまり、他者との、相互に破壊的ではないような「欲望をとおした」関係性を作り出す可能性があるはずなのだ。



そのとき「暴力」に結びついている欲望の力は、イメージによって「弱者(支配すべき、欲望の対象)」とされた人々に向かうのではなく、生の解放につながる別の方向へと向かっていくのではないだろうか。
欲望は真に「私たち」のものとなり、それが内在する(暴力を含む)力は、弱者への攻撃や搾取にではなく、また互いの軋轢にではなく、あるべき社会と関係性の構成のために使用されるはずである。