『ディア・ピョンヤン』

ぼくが見に行った日は、監督の梁英姫さんが劇場に来られて、挨拶と観客との質疑応答、サイン会を行っておられた。


在日朝鮮人若い女性である監督の視点から、民族運動の活動家として生きてきた父親の姿をとらえたドキュメンタリー。
娘が回すカメラの前でさまざまな表情を見せる老父の姿は、かわいらしく、ときには息苦しいほどに強張り、またときには素直な気持ちの吐露が素朴な感動を呼び起こす。娘や孫に対しての過剰なまでの愛情が実感される、あまりに人間的な姿なのだが、そのことが過去と現在の出来事の重さを想起させる。


監督の父親は、大阪の朝鮮総連の活動家として、長い経歴を持つ人らしい。勲章もたくさんもらってたようなので、かなり有名な人なのだろう。
でも、住んでる家も長屋みたいな感じのところで、肌着姿で家に居る様子は、生野の下町のおっちゃんという感じの人である。世界中どこでも、マイノリティーの活動家というのは、組織の仕事に関わってないときは、あんなものなのかもしれない。
この人には、監督である娘さんの上に、三人の息子があったのだが、いわゆる「帰国事業」のなかで(だと思う)、三人とも朝鮮本国に「帰国」させた。ひとり日本に残って民族学校に通うことになった娘は、「祖国」を強調する両親の考えにしたがいながらも、日本で育つうちに、しだいにそうした考えに違和感をもつようになっていく。


兄たちは、いずれも本国で結婚し、家庭をもっている。映画の中盤は、両親と三人で平壌に赴いた際に映された、その兄の家族たちとの交流の映像が占める。
三男にあたる人が登場しなかったように思えたのが、ちょっと気になったが、二人の兄の家族はどちらも平壌市内のアパートで暮らしているらしく、こういう普通の市民の生活の映像、それも日本から帰国した人たちの日常の姿というのは、めったに見ることが無いので興味深かった。映像の検閲があるにしても、なかなか新鮮な感じがした。
アパートは、どちらかというと安っぽい感じで、炊事場の窓に金網が張られていたり、窓窓からキムチにするのか白菜が束になってぶら下がってたりする。建物の前では、子どもが別の子を苛めてるみたいな場面も、ちらっと映ってた。電力不足のためだろう、夜はもっぱらロウソクの下での生活になるようである。
また、広場では行進の練習が行われてるらしく、うまく出来ないのか怒られてる人もいる。大人になってもああいうことをやらされるのは大変だ。日本もそうならなければいいけど。
二人の息子のうち、若い頃から内省的でクラシックが好きだったという長男は、いまも繊細な感じが残り、その息子も家でクラシックのピアノ曲を練習している。ぼくにはよく分からないが、かなり上手いようだ。英才教育的な制度があるのだろう。
次男の方はあまり画面に映らないのだが、ちらっと喋る大阪弁といい、最後に元山(ウォンサン)の港で仁王立ちになって船を見送っている姿といい、どう見てもこちらの方が父親似だ。


現地で行われた歓迎パーティーの席上で、父親が、息子や孫たちを指導者に捧げられるように育てたいという、強烈な愛国的なスピーチを行ったことに、娘は強いショックを受ける。
娘の感じ方というのは、「息子のため」、「孫のため」と念じて母親が段ボール箱に文房具やホッカイロを詰め込んで本国に送る行為が、いつのまにか「祖国のため」という言葉にすりかえられてしまうことへの違和感に、よく示されていたと思う。
自分にとって、また親たちにとって、そして兄たちにとって、「祖国」とは何なのか、という問いを、語り手は自分に投げかける。


映画の後半で、これまで娘の韓国籍への変更を、まったく受け付けなかった父親が、態度を一変させて娘を驚かせる。
またこの直前の場面では、三人の息子たちのすべてを「帰国」させたことについて、現在の思いをカメラ(娘)に向かって率直に語る。この場面は、不思議なほど感動的だ。
その直後、父親は重病に倒れることになるので、そうした体調の急変への予期が、こうした気持ちや考えの変化に関係していたのかとも思うが、実際は分からない。ご本人にも、きっと分からないだろう。
ともかくこの場面が、この映画のひとつの山場であると感じた。


ただ率直に書くと、娘である監督と父親との気持ちの通い合い、両親や兄やその家族たちに寄せる気持ちの深さというものは画面から伝わってくるが、それを越える表現としての力強さみたいなものが、この映画には感じられない。
映画館で見る作品としては、ちょっと辛い。
それがどういうことなのか、いろいろ考えてみた。
主な被写体である父親が、あれだけありのままの姿をフィルムの前にさらしたというのは、カメラを回しているのが実の娘だったからこそだろう。この現実の関係性に、この作品は多くを負っているわけだ。
もちろん、現実の関係が十分なものとして存在しているからといって、それが作品の出来に直結するものではないから、その点では表現者としての監督の努力は認められるべきだろう。
だが、たとえば父親の人間像を、娘である監督ひとりの眼差しを越えていろんな角度から、つまり母親や兄たちを含めた他人の眼差しを交えて描き出す試みが、もっとなされるべきだったのではないか。娘と父親との関係の濃密さが、ここでは表現の成立を邪魔してしまっているように思える。
また、先に書いた、「祖国」ということについての、自分と親たちとのとらえ方の違いを、作り手自身のなかでどう突き詰めたのかということも、映画を見る限りではよく分からない。そのへんが、どうも物足りないのだ。


別の言い方をすると、この映画は、家族についての私的なフィルム、という枠を越えられていないと思うのだ。家族間の、人間同士としての感情の交流は、たしかに軽視することのできない素朴な感動を見る者に呼び起こすが、語り手である娘の心情にしても、父親の苦悩の内実や、親子の葛藤の推移にしても、十分に描きつくせていないものが、この映画にはあると感じる。
技法のうえで、そのことがよく示されているのは、語り手である監督の心の変化が、もっぱら旅行中の画面にかぶさるナレーションによって説明されるばかりであることだ。
こうしたナレーションは、映像から何を感じるかに関して、観客に作り手との同一化を要請するものである。ここに説得力が欠けていると、作り手と文脈を共有していない、つまり他人である観客たちは、ナレーションによる内面の表白を独りよがりかお仕着せのように感じて白けてしまうことになる。
ナレーション以外の方法で、説話や映像や編集によって、語り手の内面を観客に分かりやすく伝える工夫が、この映画では不足していたように思う。
次回、どんな作品を作られるかにも注目したい。


大阪・十三の第七芸術劇場で、今月17日まで。


公式ホームページ。
http://www.film.cheon.jp/
監督が書いた同名のエッセイ集も出てるそうです。