ヒミコ・田中泯・デリダ

前に書いたように、『メゾン・ド・ヒミコ』(犬童一心監督・渡辺あや脚本)について少しかんがえる必要が生じたので、DVDで作品を見直すとともに、キネマ旬報社から出ている同書のオフィシャル・ブックを入手して、出演者のインタビューを読んだりしている。
そのなかで、とくに面白かったのは、ヒミコを演じた田中泯の話。
たとえば、娘である沙織に「あなたが、好きよ」とささやく非常に印象的な台詞に関して、こう語っている。

いや、むずかしかったです。「愛している」という意味なのか、もっと軽い意味なのか。「好き」という言葉がこんなに幅のある単語だったのかと驚きましたね。あれが「愛してる」だったら、とてもじゃないけど、ああいう場ではいえない。それに、あの瞬間のヒミコは男なのか、女なのか、父親なんだろうかとか。(後略)


これは非常によく分かる感じがする。ぼくも、あの台詞をなにか惑乱的なものとして聞いたからだ。その受取り方に、自信はないのだが。


もうひとつ、これと関連しているようにも思われるのは、田中はヒミコの役を演じるにあたって、自分の亡くなった母親をイメージしたと述べていることだ。

真似しているうちは、まだ僕ですが、母と僕が重なっている瞬間は母なんです。

ものすごい自由な人でしたね。もともと絵描きだったんですが、子供そっちのけで好きなことをやって、あまり家にもいない人でした。実は僕の人格の大半は母の影響を受けているんですが、これまで母のことは喋らないできたんです。でも今回は、大事にしまっておいた風呂敷を広げているような感覚でした。これからは踊りのなかにも母が登場してくる気がしているんです。


これらのことを読んだときに思い出したのは、去年の春に甲南大学で見た映画『デリダ、異境から』のなかで哲学者のジャック・デリダが、人は自分のなかに性差の異なる複数の声を抱えている、というふうなことを言っていたことだ。それを聞き分けることが、来るべき民主主義の重要な条件だ、みたいなことを言ってた。
だが、それよりも印象的だったのは、上映が終わったあとのディスカッションのなかで監督のファティーさんが、デリダが「自分は父親の声に住まわれている」と語ったという話をしたことだった。
あれを聞いたときは、すごく興奮した。
デリダというと、普通、母親のことが有名で、実際あの映画のなかでもデリダに非常に面立ちのよく似た母親の映像が登場する。それを見た鵜飼哲は、「自分が想像したとおり、デリダは母親似であることが分かった。だが、どうしてそのように想像してたのかが自分にも分からない」というふうなことを言っていて、それも面白かった。
だが、その母親ではなく、父親の声に住まわれているのだと、デリダは言ったというのだ。


どうもこういう話が、ぼくにはとくに関心をひかれるものらしい。先日見た『ヨコハマ・メリー』もそうだったが、ほんとうは映画に限らず、すべてそういうものにむすびつけてかんがえたり感じたりしているような気さえする。