青春ドラマスペシャル「僕と彼女の間の北緯38度線」

プロ野球がはじまって一番驚いたことは、王監督が現場に復帰していることだ。
去年の手術直後の姿を見る限りでは、もう一度ユニホームを着ることは難しいのではと思っていた。
医療の進歩と、本人の並外れた体力、精神力の賜物ということだろうが、仰木さんの例もあることだから、あまり無理はしないで欲しい。


さて、以下が本題。
表題のドラマは、31日土曜日の午後に放送されたのだが、いい内容だったと思う。
関西テレビも色々大変な時期だが、ここではしっかりした番組を作った。
感じたことを少し書いてみる。



ホームページに記載された内容は、いずれ消えてしまうと思うので、あらすじなどの文面を下にコピーしておこう。

祖国とは?自分のアイデンテイティーとは?
日本人の中で日本人同様に育ってきた在日韓国人3世の少年が、在日朝鮮人3世の美少女との出会いを通して自分探しを始める青春グラフィティー


《あらすじ》
サッカーに明け暮れる在日韓国人3世のあつし(山崎雄介)と、朝鮮学校に通う在日朝鮮人3世の美少女・美姫(ミヒ)(上原美佐)の交流を通して、祖国を知らずに育った彼らが抱える民族感情や価値観の葛藤。そして同じ祖国でありながら2つに分断してしまった目には見えない38度線の分厚い壁の存在を描く。
韓国人にも日本人にもなり切れない自分のアイデンティティーとは?
誰もが好景気に浮かれていた1988年の大阪を舞台に繰り広げられる青春ドラマ。


サッカーに明け暮れるあつし(山崎雄介)は練習試合に来ていた朝鮮学園のサッカー部マネージャー・美姫(上原美佐)に一目惚れ。あつしは美姫と付き合い始める中で、それまで気にしたことのなかった本名を名乗らない暮らしや、祖国の言葉を話せない自分に対峙することになる。
そんなある日、美姫の父・日康(小木茂光)に「君たちがなぜ日本で生まれてしまったか?なぜ、伊藤などという名前で生きているのか、考えたことがありますか?」と交際を反対される。
サッカー部が予選で順調に勝ち進む中、あつしは朝鮮大学校に進むことになった美姫から別れを切り出される。あつしの心の中に刻まれたものとは…。


ここには詳しく書かれていないが、主人公のあつしという青年は韓国籍在日朝鮮人なのだが、日本の学校に通っており、日本風の名前、つまり通名で生活している。
物語の大きな軸は、このあつしと、朝鮮学校に通う女性美姫との恋愛ということである。
これに、ボクサーである美姫の兄や、あつしの父親、友人たちなどが絡む。


まず不満な点から書いておくと、日本人や日本の社会の側、はじめに出てくる警察の人も含めて、そちらは概ね紳士的で非差別的に描かれているのに、朝鮮人やその社会の方だけが偏見にとらわれていたり、粗暴であったり、古い窮屈なものにとらわれてるみたいに描かれてたことだ。
一例をあげると、サッカーの試合のシーンなどで、朝鮮学校の生徒たちが日本の学生に向って「チョッパリ」という言葉をさかんに投げつけるのだが、それに「クソ日本人」と字幕が出される。まあ、そういう意味だろうし、そういう言葉がこの頃(設定は1988年)にはまだ多く使われてたのかもしれないが、逆に日本の学生の側がそういう差別的な言葉をいうシーンは、まったく出てこないのだ。そんなわけないでしょう。
ドラマのテーマとなっているのが朝鮮人のことなのだからそうなるのも仕方ないと思うかもしれないが、これはそういうことではなくて、テレビドラマでは日本の市民社会(つまり、視聴者の所属してる社会)を批判的に描くようなことは出来ない、ということだと思う。
日本の一般の社会も、高校も、警察も、歪みも窮屈さもバイアスもない空間として描かれるなかで、朝鮮人社会の歪みや葛藤や悩みだけが描かれるので、それらがどうも現実感のない感じになってしまう。そうでないと、一般の視聴者は安心して見られない、ということだろうが、日本の社会の現実がそのように無色透明で「問題のない」ものとしてしか描かれないため、早い話、なぜ朝鮮人たちが「帰化」や「同化」をためらうのかということが腑に落ちない印象を視聴者に与えてしまう。実際には、日本の制度や社会一般の側に問題があり、それは歴史の清算や反省の不在ということと無関係であるはずはなく、だからこそ朝鮮人一人一人の中にこのドラマに描かれたような葛藤が生じている(それが唯一の理由とは言えないとしても)のだが、その大事なところが隠されているために、現実味のないドラマになってしまっている。そういうことである。
そのへんの不自然さが、はじめの部分では特に鼻についた。


だが、全体を見てみると、あつしや在日朝鮮人たちが置かれているそれぞれの状況と、個々の悩み、苦しみ、葛藤というものが、たいへん丁寧に描かれていたといえると思う。
たとえば、駆け出しのボクサーである美姫の兄だが、ずっと非常に強い民族意識の持ち主であったのに、ボクシングをやるなかで考え方にある変化が生じたことを打ち明けて、妹を失望させる場面がある。
彼は、今は対戦相手を得るために日本風のリングネームで試合をしているが、いつか本名でリングに立とうと考えてきていて、妹もそれを信じていたのである。だが、あるとき、自分は今後も今のリングネームのままで試合をしていこうと思うようになったと、不意に打ち明ける。そのとき、彼はこう言う。
「ボクシングは、腕一本の世界だ。名前など関係ない。」
この言葉は、論理としては矛盾しているように聞こえる。「名前など関係ない」のなら、本名でリングにあがってよいはずだからである。
そう、たしかに矛盾しているのだが、本当に矛盾しているのは日本の社会の方なのだ。
解消されないでいるその矛盾を肩代わりさせられるようにして、美姫の兄は一見矛盾したレトリカルな言葉を、空元気のように口にせざるをえない。
一見陽気だが、この陽気さはなかば強いられている。
そういう複雑なものが、ここでは描かれていたと思う。


また、この兄があつしに、妹が日本人と付き合うと言ったらどうすると聞かれて、当たり前のように「チョッパリなんか、ありえない」と言った後、「お前でも、ぎりぎりやぞ」と言う場面がある。
そう言われたあつしは、どんな気持ちがしただろう。
これは端的に人を傷つけるひどい言葉だが、そういう言葉が存在するという現実が、ここでは描かれていた。


あつし役の山崎雄介という役者は、名演といっていい演技だったと思う。
とくに、美姫の兄が試合に負けた直後、朝鮮学校の仲間たちに囲まれた美姫のもとに近づいていくことが出来ない切なさの演技は圧巻だった。
自分ひとりの「力」や「勇気」のようなものによってではどうすることも出来ない、見えない繊細な壁のようなものに阻まれてしまった人間の、取り繕いようもない無力さ、脆弱さといったものを、驚くべき率直さで表現していた。
この場面を見ていてぼくは、やや唐突だが、映画『硫黄島からの手紙』で加瀬亮が、米軍に投降した直後に射殺されるシーンの演技を思い出した。


このあつしと、父親(今井雅之)とが言い争う銭湯のシーンも迫力があった。息子のためにと「帰化」を決意した父親は、「紙の上では日本人になっても、魂は韓国人のままだ。誇りを捨てたわけじゃない」と言うが、その父に息子は、そのナイーブな屈折したプライドがうっとうしいのだと、反発するのである。
また、東京の朝鮮大学校への進学を決めた美姫があつしに、恋愛の終わりを告げる場面も、とてもよかったと思う。
それから最後の場面で、あつしたちの学校と朝鮮学校とのサッカーの試合が再び行われたとき、引き分けで終わりそうなところを、あつしが「このままで終わらせるわけにはいかない」というふうなことを言って、猛然とゴールに向うところも印象的だった。
その意味は、ぼくにははっきりわからないのだが、漫然と「引き分け」のままで終わらせることは、何か大きなものに対しては負けたことを意味してしまう、ということではないかと思う。


このドラマは、結局ハッピーエンドにはなっていない。
日本籍に帰化してサッカーの日本代表入りを目指すらしいあつしと、朝鮮大学校に進む美姫の間の隔たりは、解消されることも減らされることもなく終わる。
これは、それぞれの道が尊重されるべきものとしてある、というふうなことではなくて、不幸にして分かれてしまう道というものがあるのだが、その残念な現実から目をそらさず、同時に決してその現実を「受け入れる」ことで固定させてしまいたくないという感覚の表明のようなものになっていたのではないかと思う。
この不幸な現実を変えていくことは、もちろんぼくたち自身の課題なのである。