北海道への旅・その2

旅行中、報恩講というお寺の行事に関わる機会があった。
この行事の詳しいことについては、辞典などを見てもらいたいが、ぼくの印象では、各お寺にとっての年間最大の行事、という感じだった。
ぼくが泊めてもらってたのは、北海道の田舎にある浄土真宗西本願寺派のお寺で、この派のお寺では、だいたいこの時期に報恩講をするところが多いようである。どうもそれらを総合して一月前半の西本願寺での報恩講に臨むという仕組みになってるらしいのだが、詳しいことは分からない。
ともかく、個々の小さなお寺とその檀家の人たちにとっては、これはとても重要なものであるらしい。
ぼくも、たまたま泊めてもらってたお寺の報恩講が目前ということで、檀家の人たち、その土地のおばあさんやおばさんたちだが、そのなかに混じって本堂や仏具の掃除を手伝った。
自分の部屋を、あんなにきれいに掃除したことはない。


それで、このお寺の報恩講は、ちょうどぼくが大阪に帰る次の日からということで参加できなかったのだが、近隣の町にある同じ宗派のお寺の報恩講に、二日間泊りがけで参加することができた。
本堂に檀家の人たちが並んで座る前で、朝から夜にかけて、何度かお経が読まれたり、声明みたいなのが唱えられる。それには、そのお寺のお坊さんだけでなく、近隣や北海道各地のお寺から、お坊さんたちが十人ぐらいもやってきて、一緒にお経を読んだりするのである。つまり、お坊さんの助っ人だ。
これは、もちろん同じ宗派のお寺だが、住職の親戚であったり、同級生だったり、なんらかのつながりのあるお坊さんたちが来て助けるわけである。そして、それらのお寺の報恩講のときには、もちろんこちらから行って助っ人になる。つまり、報恩講が集中的に行われるこの時期には、お互いに助け合って、壇上に十人ぐらいお坊さんが並ばないと格好がつかないらしいこの行事をこなしていくわけである。
ぼくはそれを見ていて、若い頃に働いていた地方の牧場での「サイロ作り」のことを思い出した。冬の間の牛たちの食料にするため、牧草やトウモロコシを刈ってサイロに詰め込む「サイロ作り」は、やはり冬に入る直前の時期に行われる、村の畜産農家にとっては最大の行事だった。1、2日の間にたくさんの人手を集中しなくてはいけないこの作業に、親戚や近隣の農民たちが集まり、今日はあの家、明日はこの家と、順繰りにサイロを作っていく。毎日、人々に集まってもらった家では、順番にご馳走が振舞われて、ことが進んで行くのである。それは、冬に入る前の最後の大仕事であり、ちょっとお祭りのような感じもある年中行事だった。
地方のお寺のお坊さんたちにとっての報恩講は、そういうものかもしれないと、ちょっと思った。


報恩講ではまた、京都などから名のあるお坊さんを呼んで法話をしてもらったりということをするようで、今回ぼくも、ずっとそのお話を聞いた。
これは、ぼくにはとてもいい経験だった。
法話の内容を要約するというのも、あんまりな気がするが、たとえば、「明」という字は、ほんらい窓からさす月明かりぐらいの明るさのことを言うそうである。明るすぎると、かえってものは見えない。
それから、命の価値というのは、比較ということによって損なわれ消えてしまうという話。これは、親が自分の子どもを成績などでよその子と比較することの愚を例にあげられていたが、いまの世の中全体、また人間一般に関しても深く妥当することだと思う。
ぼくは、まず自分自身の命の価値についての戒めとして聞いた。
そういった話を、その場に居て、耳で聞くのである。頭というよりも、耳や体でそれを受け取る。


この小さな町のお寺での、報恩講の行事の全体をとおして、ぼくはこのような土地の人たちに密着した宗教的な空間が日本にも存在するということに、驚かされた。
夜に入って、本堂の奥で大きなロウソクの灯がゆらめくなかで、町の人たちがお経の本を手にして座っている雰囲気は、ヨーロッパの映画に出てくるスイスの山奥や、フランドルやセゴビアとかの信心深い村々のクリスマスやミサの光景を想像させるものだった。
日本の地域社会というのは、もともと非常に宗教的であり続けているのではないかと、漠然と思った。
いまの日本という国が全体として宗教的な方向に向かっているとすると、そうなる素地はわれわれの文化や社会のなかにもともとあるのかもしれない。
いや、今だからこそ、人々は宗教に再び魅惑されつつあるのか?


このお寺のある町は、一時は一万二千ほどの人口があったが、現在は二千人ぐらいしか住んでいないそうである。
檀家の一人で、地元で和牛の育成などに携わっている農家の方のお話では、その原因のひとつは、農産物の自由化による農業経営の変化に対応できなくなって、離農する人たちがたくさん出たことだそうだ。
国による農業、農家への保護がなくなり、それぞれの農家がマーケティングをやらなければ生きていけなくなった。ぼくに話をしてくれた、この農家の人も、たとえば年に何度か東京などに行って、商社周りをするなどの営業活動をしているらしい。
その一方で、新規参入で農業を行うことがやりやすくなったのも事実で、努力と才覚のある人は、それで成功しているが、これまで農作業だけに専念してきた高齢の農家の人たちは、こうした「自由競争」に対応できず、どんどん離農して、村から去っていったということである。
それは、高齢の人たちがコミュニティーを失っていく過程でもあった。


「自由化」とか「市場の開放」とか聞くと、都会に住むぼくたちは、企業や工場や商店のことなどをもっぱら考えるわけだが、グローバル化や「新自由主義」の洗礼を日本でいち早く受けたのは、じつは地方の農村の人たちだったのかもしれない。
この檀家さんと話をさせてもらって、そんなことにもはじめて気がついた。
それにしても、この牧場主のおじさん、ほんとに感じのいい人だったなあ。自分はこの村で生まれ育った農民なんだけど、新規参入で村に入ってきて頑張っている人たちのことも、ちゃんと評価して尊敬している感じだった。口数の少ない人だったが、外から入ってきた人間を孤立させないという気遣いのようなものをすごく感じた。


北海道の旅の最後の夜は、お坊さんたちのなかに混じって深夜まで酒を飲んで喋った。
ずいぶん久しぶりに無茶な飲み方をしたため、翌朝は頭がボーっとしていた。
年のせいなのか、最近は深酒をするとよくこうなる。
朝、気分が曇ったままで、外をふらつき歩く。町外れの雨竜川という川の岸辺を、寒風に吹かれて歩き、晩秋の山並みを眺めた。
この風景がどんなだったかもすぐに忘れてしまうかもしれないが、自分の目がこの山々の姿をじっと見つめたという事実だけは、じぶんの体のなかにか、その空間にか、どこかに刻まれて残るんだろうと思った。