『トンマッコルへようこそ』

朝鮮戦争の最中に南北双方の兵士たちとアメリカ兵が戦場から外れた山村で出会い、はじめは対立しながらも、やがて村人たちと牧歌的な生活を送るようになるという話。
設定から想像されるとおりの童話のようなファンタジーで、じっさいはじめの数十分は話に空々しさを感じて退屈だった。
だが画面を見ているうちに、いつの間にか自分の心のあり方が変化し、話のなかに引き込まれていることに気づく。
それは、この映画が、ありがちな「ファンタジーという物語」ではなく、観客の心に直接働きかけるファンタジーそのものとしての力を持っているということだと思う。
そのことは多分、コメディの要素を交えて描かれるこの夢幻的な物語が、血で血を洗う戦争と現実の残酷さに対する意識に裏打ちされていることによって可能になっている。


しかし、それだけだろうか。(以下、ネタバレです)


戦うものたちが、戦争のさなかに農村の暮らしと労働に従事して、人間としての大事なものに気づかされるという物語は、まさに朝鮮戦争の時期に作られた黒澤明の『七人の侍』を想起させる。
この二つの映画は、まったく違っているが、どこか共通点をもってもいる。
共通していることのひとつは、戦う男たちの「農民」や「民衆」の生活に対するストイックな尊敬のようなもの、村人たちの農作業を手伝っているときに、「やられないうちに、自分たちから攻撃を仕掛けよう」と進言する若い兵士を戒めて、人民軍の将校が返す「真面目に働け」という一言に示されているような倫理観、ある種のイデオロギーだ。
それは、「戦争」という外来のものに対して、農村共同体の生活や、田畑での労働という土着的な価値を対峙させる。そういう性格の、いわばアジア的な「平和」の論理であるといえよう。
それが全面的にいいものかどうか分からないが、それに触れるとき、ひとつの感動があり、力強さを感じる。


大きく違う点は、たとえばどこだろう。
七人の侍』では、野盗の襲撃から村を守りぬいたのは最終的には村人たち自身であり、そこにあの映画の、「平和」への、というよりは、「反戦」(嫌戦)のメッセージがあった。武士(軍人)は、民衆の生活の現実性の前では、結局は否定されるべき存在にすぎなかった。
だがこの映画では、米軍(国連軍)機の攻撃から村を守って死んでいくのは、兵士たちである。この兵士たちにとっては、戦いは、たんに国家によって押しつけられたものであるだけではなく、村人たちの平和な日常を守るための行動として積極的に位置づけられている。
だから、この映画の重要なメッセージは、守られるべき「平和」の尊さということであって、「反戦」では必ずしもない。そこに、ぼくは若干の違和感をおぼえるのだが、このことは、この国では、侵略や戦争が、人々にとって避けることの出来ない脅威として、生活のなかで常に意識されてきた結果であるのかもしれない。


もうひとつ。
次第に気持ちを通い合わせるようになった頃、韓国側の兵士が人民軍の中年の兵士に向って「兄貴と呼ばせてくれ」と言う。年齢が大分違うので「おじさんと呼べ」と答える相手に、「なぜか情を感じるから、兄貴と言わせてくれ」と、さらに甘えるようにせがむ。
この場面には、ある種のエロティシズムがあると思うのだが、これは韓国映画独特のものだと思える。この過剰な親密さのようなものに対する肯定は、すくなくとも日本映画では、あまり目にしない。
「情を感じる」という言葉の使われ方が、たぶん非常に違うのだ。社会のなかで肯定される、人間同士の距離感が、やはり違うというふうに感じる。


それに関連するが、すごく韓国映画らしいと思うのは、みんなで力をあわせて獲ったイノシシ(この大げさな捕獲のシーンのばかばかしさは圧巻で、ぼくはすごく好きだ)を、夜、敵味方で分け合って美味そうに食べるシーンや、その翌日農作業中に便意をもよおして草陰でしゃがんでいて、敵兵と顔を会わせ言葉を交わす場面。
ああいうところは、すごく人間的というか、「動物的でもあるという意味で人間的」な感じがして、ぼくは好きである。


蔵が爆発してポップコーンのようにはぜた木の実の雨が降る場面や、米兵が村の娘に案内されて苔むした戦闘機の残骸を目にする場面の夢幻的な美しさ、いずれもCGが重要な役割を果たしている。
そこに重ねられる久石譲による音楽も、たいへんすぐれた効果をあげている。この音楽がなかったら、この作品は、まったく違ったものになっていただろう。


CGや久石の音楽によって創造される物語の空間は、現在の、技術による「知覚の再編」を経たあとの、人々の心に訴えかけるものだと思う。それは人工的に作られたことがはっきりしている物語だが、その虚構の空間を作り出している技術の力そのものによって、見ている人々の心に訴えかけようとするのである。
そこで救われようとする存在は、必ずしも近代的な「人間」というものではないかもしれない。少なくとも、人間の救済が試みられる道筋は、ここでは従来と大きく違っている。
先に黒澤との比較を書いたが、じつはこの点にこそ、ヒューマニズムを標榜した黒澤の映画と、この作品との、同じ「平和」についての映画だと考えられるとはいえ、主要な違いを見るべきかもしれないのだ。
日本と韓国、というような横の差異よりも、ここでは時代の変化による縦の差異が重要に思える、ということである。


CGによって作り上げられた「トンマッコル」の村に住んでいたのは、果たして誰であったのだろうか。それは、どのような回路で現実の人間につながっているのだろう。
この問いの向こう側に、この作品が持つ危うさと力のありかを、共に見出せるのではないかと思う。