障害という言葉

きのうの夜、NHK教育テレビで、「性同一性障害」に関する番組をやっていた。
最後の部分を偶然ちょっと見ただけなので、番組全体の詳しいことは分からないが、『福祉ネットワーク』という番組枠のなかの企画で、「ハートをつなごう」という題名がついていた。


ぼくが見た場面では、たしか堀江さんという名前の男のアナウンサーと、ソニンが司会をしていて、当事者の若者とその父親、それから同じ「障害」をもって生きてきた大人の人たち三人(ミニコミ誌をやってる人とか、区議会議員とか)と、精神科医の人も居て、スタジオで話をしていた。
書いていて、当事者という言葉も、障害という言葉も、すんなりこう書いていいかどうかためらいがあるが、ひとまずこう書いておく。
それで、その三人の体験者なかの一人の人の話で、たいへん心に響いたこと。
その人は男性として生まれて、たいへん早い時期から自分が心は女性であるとはっきり自覚するようになったということだったが、それは絶対に隠し通さなくてはいけないことだという強烈な意識を当初から持っていた。それで、学生の頃、友だちの間で「好きな女の子のタイプは?」といった話題になったとき、そのことを勘付かれないために、答える内容を決めていた、という話だった。そうしないと、問われるたびに答えが違ったりして、つじつまがあわなくなり、不審に思われることを怖れたらしい。
これは、他の体験者の人も同様だったらしくて、ある人は「着物が似合う女性」という答えを用意していたということだった。
この話を聞いて、これは本当に辛い体験なんだなあと、思った。人に気づかれないために、いつも作り事の答えを用意して、つじつまを合わせることに神経を使わないといけないというのは、ほんとうに辛いと思う。まして、性という人間が自分を生きていくうえでの根本的な部分に関することだ。
この話は、聞いていて何か気持ちが重くなった。「隠さなければいい」と思う人がいるかもしれないけど、そういうことではないと思う。


それで、あとからちょっと思ったのは、この場合でも「障害」という言葉で状態を表わしているし、一般にもよく使う言葉だが、「障害」というのは結局、「現状の社会のなかで自分が生きていくうえでは障害になる」という意味ではないか、ということだった。
つまり、除去されるべき「障害」というのは、社会(ぼくたちを含めた)の側にあるのであって、本人の属性にあるわけではない。どういう場合でも。
当たり前のことだが、あらためてそのように思った。