イベント報告と、ぼくの労働観

友だちの誘いで、29日に大阪市森之宮のアピオ大阪で行われた『フリーター・ワカモノ・失業 何とかしようや!の集い』という催しに行ってきた。
たいへん面白い集まりだったので、その報告を書こうと思ったのだが、まとめているうちに自分自身が労働等にかんしてどういう考え方をしているのかが段々はっきりしてきたので、そのことも一緒に書こうと思う。
レポートとしては読みにくいだろうが、一応自分にとっての要点は押さえたつもりである。
ただし、30分ほど遅刻したので、よく内容を把握していない部分のあることをお許し願いたい。


三部構成で、一部がディスカッション、二部がミュージシャンの人たちによるライブ、三部が会場からの質問に答える形で再びディスカッション。
パネラーは、以下の方々。

中桐康介氏 (長居公園なかまの会) 野宿者の支援。
木村雅一氏 (街づくりNPO法人 あとちクラブ) 障害者へのヘルパー派遣事業など、地域生活支援などの活動。
上田育子氏 (せんしゅうユニオン) 女性のパートタイム労働の改善に関する活動を行ってこられたようだ。
高島与一氏 (なかまユニオン) 労働組合 シナリオライターでもあるらしい 司会役


以下は、ディスカッション、質疑応答と、終了後の交流会での発言を含めた内容のまとめ。発言の順を追ったものでなく、語られている事柄の項目別に整理して構成した。
ぼく自身の思いは、長くなる部分は「独白」風に、引用枠のなかに入れてみた。

親の世代の問題として

いまの低賃金の世の中では、若者たちは自立できない。だから、若者やフリーターの問題といわれているものは、親の世代の問題でもある。(高島氏)
これに関して、交流会のときに、補足の発言があった。
年配者が、子どもの世代に、魅力ある生き方を示してこれなかったことにも責任がある。だから、親の世代の問題として考えるべきだ、ということ。 
この意見には、共感する部分あり。
 

木村氏の話 NPO論・地域社会

この方の話は、ぼくにはたいへん面白かった。もともと部落解放運動に長年携わってこられたとのことで、活動を見る視点が、地に足がついている感じがした。
最初に、NPO「あとちクラブ」の取り組みについて。
地元に限定・密着した方針で、高齢者や障害者を含めて約100人を雇用し、1億円の原資で約1億円分の雇用を生み出しているが、団体そのものの運営は赤字。
遅れていったために、この原資がどこから出ているのかは、聞き損ねた。


以下、カギ括弧内は、木村氏の発言。
NPOの自立と、NPOが支援する人たちの自立とは、構造上矛盾するところがある』
つまり、障害者や高齢者でもある働く人たちにちゃんと給料を出そうとすると、団体の経営は、非常に苦しくなる。
NPO労働組合のあるところはない』
なぜなら、経営がそれどころではないから。事業者負担が重過ぎるのだ。
そもそも、NPOが増えたのは、レーガン政権、サッチャー政権、小泉政権のとき。要するに、「小さな政府」、行政の経費節減が目指されたときに、NPOは大量に発生している。だから、NPOというものには、出自そのものに怪しいところがあるのだ。そういう自覚を持ちながら運営することが必要。
そのうえで、NPOを、社会をひとりからはじめて変えていくためのツールとして、積極的に使っていくべきだ。NPOは、一人でも始められる点が、大きな利点。一人からはじめて、コミュニティーを作り、社会を変えていく。また、意見表明していくべき。


これに関連して、「地域に根ざした支援や雇用創出の取り組みが重要とのお話だったが、コミュニティーが地域社会ではすでに崩壊している現状で、どうやって地域に根ざした活動を行っていくのか?」という質問をしてみた*1
それに対する答え。
コミュニティーはたしかに崩壊している。だが、古いコミュニティーにも、悪い面はたくさんあったのだ。「今だからこそできる」ことがあり、現状を嘆くのではなく、動き出すことによって「自分たちが望むコミュニティを作っていく」という意欲が大事だ。
ある程度予想していたが、非常に前向きな答えであり、感心した。


上田さんによる、やや専門的な労働問題、法制の話。

「均等待遇」の実現を(日本はILOの175号条約を批准していない。)。
これは、オランダ型のパートとフルタイム労働の互換性を有した労働形態の導入が必要だということと、後で出てくる「同一価値労働・同一賃金」の実現ということに関係してるらしい。
「オランダ型」が理想的なのは、そうだと思うが、日本で本当に実現可能なのだろうか。


また、パート労働者の問題が、現在のフリーターの労働条件の問題につながっている、という視点の提示。
「女性」に対する分断ということが行われてきた。
たとえば、85年の男女雇用機会均等法では、正社員だけを対象にした男女雇用均等が行なわれたことなど。
「私たち(女性パート労働者)は、まだ勝っていない当事者である」という、上田さんの言葉。
これを受けて会場から、現状は「かつて女性に強いられたものの全般化」だということですね、とのまとめの発言があった。
この点はよく分からないが、そういわれてみるとそうかも。


また、上田さんから、「正社員の労働条件が非常に悪いことが、フリーター問題の根になっている」という趣旨の発言があった。余暇がなく、家庭のことやケアをする時間もなく、性差別などもあること。
これは、そうだと思う。

労働問題としては、フリーター等若年層の問題は、こういう大きなくくりのなかで考えられるのが妥当であるように思う。後で出てくるが、「フリーター」や「ニート」という問題設定自体が政府や行政によって上から作られたものだ、という指摘には説得力があった。

95年にあった政策の大転換。(高島さん)

正規雇用を減らしていく方針が、このとき定まった。
また、成果主義賃金の導入。
だがしかし、95年以前の終身雇用と年功序列型賃金体系も、おかしなものである。


それは「標準世帯」を前提にしていたが、本当は世帯でなく個人単位の賃金にしていくことが大事なのだ*2
また、正規労働・非正規労働という区別でなく、同じ基準で賃金を払うべきなのだ。
これが「同一価値労働・同一賃金」ということで、95年以前の労働システムにも、こうした思想はまったく欠けていた。
結局、日本にはこうした考えが、一度も根付いたことがないのだ、という意見。

これは、現在出てきている、終身雇用型システム(中間集団)への安直な回帰志向を批判する意味で、重要な指摘だと思った。たしかに日本の社会は、もともと「人間的」ではなかった、と思う。

労働に対する考え方の差異

全体として、労働問題として現代の若者の状況をとらえる、というディスカッションになったと感じる。


交流会を含め、「フリーター」や「ニート」は本当に社会問題なのか、という提起がなされた。
小泉政権は、政策や産業界のあり方の問題を不問に付したまま、若者の内面の問題だけを焦点化している。一方で、エリート養成と、ベンチャー支援だけが語られる。

  
さらに、交流会では、こういう発言があった。
社会問題というのは、当事者が立ち上がって声をあげたときに、はじめて「社会問題」となる。「フリーター」や「ニート」の問題は、政府などによる「上からの社会問題化」にすぎないのではないか。
大体、政府の言うことを聞いても、自分が「フリーター」なのか「ニート」なのか「失業者」なのか、曖昧である。そこに胡散臭いものを感じる。
結局、「フリーター」、「ニート」というのは、支配者の言葉である。
賃労働の現場における、搾取の一形態であり、若者たちはその底辺に置かれて本当は搾取されているのだ。その「怒り」をつなげることが大事、という捉え方。
これは、たしかに正論であるばかりでなく、「人間の肉声」として魅力的な考えでもあると思う。


しかし、ディスカッションの場では、会場の若者からこういう声が聞かれた。
ジョブ・カフェに行って、「40時間以上働きたくない」などと条件をいくつか言うと、「そんなところはありません」と呆れたようにいわれる。
「仕事で自己実現したい」という風に言わないと、職につけないような雰囲気があるのが嫌だ。
この意見は、よく分かる。労働と人生の価値を過剰に重ねられたくない。これは、非常に重要なポイント。
こうした労働観・人生観と、上記の「古典的」な労働観とは、大きな隔たりがある。

「働いても働かなくても生きていける社会」が、ぼくは理想だと思う。
ただ、どうしても働かなければならないなら、それに応じた「誇り」や「やりがい」は、たしかに必要な場合が多いだろう。たぶん。
なぜかというと、人間は「誇り」なしで生きられるほど強くないし、「頑張らないこと」も、ときには結構辛いからだ。

それに関連し、交流会で、「若者たちのなかに、労働運動や労働者といった言葉への抵抗が強いことに戸惑いがある」との発言。でも、この言葉を自覚的に用いていきたい、とも語られていた。難しいところだ。

「人間的つながり」(マイナー化)の問題。

これは、上のことに関係している。

会場から、「若者たちが個々に分断されている労働現場の状況を、どう乗り越えて連帯していけばよいか?」との質問が出され、労働運動の経験が長いパネラーの一人から「運動を通して、目標実現の喜びや、一体感を得ることが重要」という趣旨の答えがあった。

ぼくが思うに、そもそも今の若い人たちは「仲間との一体感」を、どこまで求めているだろうか?あまりにも関係が濃くなりすぎると、しんどいという人が多いのではないか。
たしかに、今回の集まりは、フリーターの若者から、野宿者のおじいさんや釜ヶ崎の労働者の人まで、多様な方々が集まって、人間的な交流があったと思う。ぼくがこれまで、「マイナー化(マイノリティ化)の可能性」と呼んで重視してきたのも、こういうことだ。
だが、この関係があまり日常化するとしんどいという人が増えていることも、事実であろう(ぼくの言う「マジョリティ化」、断片化に関係)。
その時に、「一体感の喜び」だけで、人を連帯にひきつけられるだろうか?

これは、下の問題につながる。

「自立」とは何か?(会場からの質問)

会場から、こういう趣旨の質問があった。
中桐さんの答えは、ぼくなりにまとめると、「野宿者には、自立心の強い人が多い」ということだった。たとえば、生活保護をもらおうとしない人が多い、など。
その通りであろうと思う。
また、木村さんの答え。
「自分のことを自分で決める」。これが自立ということだ。

だがぼく自身は、「人に頼って生きては駄目なのか?」とも思う。物乞いや、ヒモや、居候や、詐欺師まがいの生き方は駄目か。
これは結局、人間は安楽な生や、安楽な死を欲してはいけないのか、ということにつながる。被支配や依存が安楽を実現するなら、その方が好ましいという考えは、全否定されるべきものだろうか。
こうした生き方が、かならず「他者の排除」や「生の変容の可能性の放棄」ということ、つまり本当の「自由」を断念することにつながるとは、言い切れないのではないか。
いやそれ以前に、われわれ自身は(ぼくは)、なぜ物乞いやヒモや居候を、受け入れられなくなったのか。これはやはり、「こちら側」に突きつけられている問題であるのだろう。
排除的なのは、ぼく自身である。

 

最後に、ライブに参加されたミュージシャンの丹羽さんの発言が印象的だった。

野宿者を襲撃する若者たちの側にも、深い絶望がある、ということ。
その通りだと思う。
ライブを間に入れた構成は、たいへんよかったと思う。

*1:じつは、中上健次の小説に出てくる「路地」のことが頭にあった

*2:ジェンダー問題との関連。この後、別の文脈のなかで上田さんから、「世帯主が誰かをパラサイトにさせるシステムから脱却し、個々が自立した社会を作っていくことが根本」との発言があった。これも、明快な視点ではある。