王と長嶋

日曜の夜にNHKでやっていた王と長嶋の特集。


ガンの手術をした直後には、げっそりとやつれて、健康状態がひどく心配された王が、すっかり元気になって往年の活力を取り戻した感があったのも印象的だったが、それ以上に長嶋には驚かされた。
脳梗塞で倒れて、半身が不自由、また言葉もひどく聞き取りくいのだが、以前と比べて目の輝きも力強く、語りの内容が格段に深いものになっている。倒れて以後の体験のなかに、よほど大きな転機があったのだろうか。
あるいは、番組のなかで語っていたように、自分のイメージの呪縛から解放された、自ら脱ぎ捨てることを選択した、ということかもしれない。
正直、「これほど深い、自分の言葉を持っている人だったのか」と感心した。
とくに番組の最後の方で言った、「人間は他人に言えない孤独を持つことが大事で、それを持ちながら人間は生き抜くのだ」という意味の言葉は、印象深かった。


一方の王だが、長嶋と自分との対比の話で、「(長嶋は)国民的なスターだったから、自分としては成績(数字)を上げることでファンに喜んでもらうしかなかった」ということを、たしか二度言っていた。これは、今だから言える表現ではないかと思う。
「国籍条項」のため国体に出られなかったという経験もしてきた自分は「国民的な」スターにはなれないという思いが(国民栄誉賞はもらった、というか王のために作られたような賞なのだが)、現役時代にはあったのだろう、と思った(もちろん個人的な資質の違いという意味もあるだろうが)。


それと、若い頃にやんちゃで手に負えなかった王が、荒川コーチとの出会いと指導によって大選手になっていったというストーリーは、王がそれほどスケールの大きな存在である(あった)という王自身を肯定する話ではなくて、なにか荒川のおかげで「真人間」になったというような暗に否定的な話になっていることが、もう何十年も感じ続けてることだが、ほんとに鬱陶しい。
それがまた、荒川がもう80を越えてると思うんだけど、ほんとに元気なんだよなあ(笑)。


王といえば、先日イチローが記録を作った日のインタビューで、「ヒットになるならないという結果ではなく、全打席に全力を傾けているというその姿勢が素晴らしい」と言っていたのは、ほんとうにそうだよなあ、と感心した。
王という人は、特別に含蓄のある「深い」表現や、ニュアンスのあることを言う人ではなく、いわば(論理的にも道徳的にも)「正しいこと」しか言わないと思わせるところがあり、それを面白みがないという人もあるが、そうは思わない。
王はそういう場で生きてきたのだ、と思うからだ。