嫉妬について

勝手な話だが、先日書いたようなわけで、かなりの間他の方のブログをあまり見ない日が続いた。
年明けからこれではイカンと思って、少しずつ以前よく読ませてもらっていたサイトを覗いているのだが、この間に本を出版された方があったり、事情があって休止状態になっているサイトがあったり、以前はあまり更新されてなかったのに自分のペースで粘り強く続けられておられる方があって驚かされたり、知らない間にずいぶん変わったんだなあ、と思う。


ところで、2日のエントリーを、id:ueyamakzkさんがご自分のブログのなかで紹介してくださり、TBをいただいていた。
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20060103

何か応答できるようなことが書ければいいのだが、上山さんのエントリーの内容は、「当事者」としての活動の体験に関わることで、ぼくにはとても拮抗するようなことは書けない。
ただ、このエントリーのなかで語られている「嫉妬」という感情について、少し思うところがあったので、あえてTBするような内容ではないが書いてみる。


嫉妬(転移)に駆り立てられているとき、人は生きている現実のなかのもっとも具体的なものに触れているような気がする。だから人は、嫉妬することを欲望するのだ。だが、「後になって」みると、この手触りは「現実」とは別のもので、自分は渦のなかにいたとき、実は「現実」からもっとも遠ざかっていたのだということに気づくだろう。
しかしこの認識自体は、必ずしも「現実」への接近を意味するわけではない。
ファシズムの時代の「渦」が終焉してから5年後の1950年、島尾敏雄はこう書いた。

あらゆることが、あの木乃伊之吉の嘗ての存在に連なり、私は根こそぎ生活を奪われてしまった者のように、世間が真空に思えた。何とも手答えがなく、私自身影のように薄く、木乃の傷痕だけが鋭く残されている。之はいけないことだ。あの木乃と随伴した日々も私は間違っていたかもしれないが、又今のような調子も亦間違っているように思う。しかし、どうにも膝の力がぬけて、がくっと参ってしまった。(『贋学生』)


「あの時」が間違っていただろうということは、渦からさめた「今」が間違っていないということを意味しない。
問題は、「あの時」なぜ自分が「渦」に巻き込まれることを欲望したかだ。その時自分が、欠落と感じていたものはなんだったのか。その答えが見出されない限り、「渦」はいつでも人を捕らえにやってくる。


いったい人はなぜ、嫉妬することを欲望するのだろうか。
最近、ぼくがよく引用するジャン・ジュネは、ある小説のなかにたしかこう書いていた。
愛情と友情との間には、ひとつだけ違いがある。それは、友情には嫉妬がないことだ、と。
これは当たり前のことのようだが、たいへん重要だと思うのは、ここでは、「友情」の名で呼ばれるような社会的な秩序において、何が抑圧されているのかが語られていると思うからだ。
つまり、友情とは、嫉妬がもたらすような混乱に対する抑圧の上に成り立っている(あるいは、その抑圧を行うための)社会的な絆なのだ。
端的にいえば、友情が成り立つのは、関係の(ある意味での)「非性化」によってであるといえよう。これは、関係の秩序化ということと重なっている。
大事なのは、その過程のなかで、たぶん嫉妬と呼ばれる情動そのものが、秩序化されて制度的なものに変わるということだ。それは、性そのものの制度化と重なっているのだろう。さまざまな社会的行為(共同性)のなかで、われわれが突き当たって翻弄されるのは、その「制度化された嫉妬」ではないかと思う。


だが、秩序化(制度化)される前の情動に、われわれは出会えるだろうか。
ぼくが夢想するような「社会性」というのは、そういう情動と不可分なものなのだが。


嫉妬という感情の根にあるのは、生きている自分が「誰でもありえたという可能性」の意識、つまり生の偶有性の意識だろう(この「偶有性」という言葉は、『自由を考える』のなかで、大澤真幸が使っていた。)。
そこでは、自己の生と、(欲望の対象として物象化されているとはいえ)競合する他人の生とが、ある仕方で互換可能であるかのように見なされている。それは、秩序化された社会(たとえば「資本制」)の枠組みのなかでは、自分や人の生を「道具」や「項」としか見られないような索漠とした意識の産物でしかないように見えるが、秩序化以前の根にある情動としては、自己の生と他人の生との混交の可能性、分離以前の状態への回帰の可能性を開くようなものなのだ。
おそらく、人が嫉妬の渦に魅惑され、そのことを欲望してしまう、根源的な理由はそれだと思う。そのことは、現実の嫉妬の渦のなかでは、意識のなかに浮かぶことはほとんどないが。


今ある自己の生の枠組みを越えるような関係性、社会性に対する飢えが、嫉妬という感情の底には隠されているのだと思う。