クライストの短編

クライストという作家の作品は、『千のプラトー』のなかで、その有名な戯曲『ペンテジレーア』が論じられているのを読んだときから、ずっと読みたいと思っていた。
敗戦から間もない時期に出版されたこの岩波文庫に収められているのは、表題作をはじめ、この作家のすべての短編小説であるという。
(以下引用文は、漢字を現在普通に使用されているものにあらためた形で引いた)


そのなかでは、岡真理が『記憶/物語』のなかで論じていた『チリの大地震』が、やはり秀でた傑作だと思う。
この作品については詳しく書かないが、気がついたのは、結末で起きる教会堂での虐殺というのは、たしかに大地震の衝撃によってもたらされた群衆の内なる衝動の噴出だと読めるが、これはその「非常」のときに突然起きたものではなく、すでにその前、尼僧院の庭で密通した若い男女の処刑に熱狂する人々の様子のなかに、その根のようなものが描かれているという点である。

市中の人々はこの不祥事を憤ること甚だしく、このようなことの起った尼僧院をも非難する声が鋭かったので、アステロン一家の嘆願も、また常にはその行動に非の打ちどころのないこの少女を愛していた尼院長の懇情も、彼女のうえにふりかかる重い寺法を和らげる由はないのであった。ただ副王の厳命によって、ようやく火刑を斬首に代えることはできたが、市内の女たちは妻も娘もそれさえ少からず不服だったのである。
 かくて少女が刑場にひかれる通路では或は窓を賃貸しし、屋根を剥ぎ、敬虔な娘たちは親しい者と一緒に神罰の下る光景を見ようとして友人たちを招き集めた。(p84〜85)


このとくに最後の方の部分は、たいへん怖い描写だと思う。


また『聖ドミンゴ島の婚約』は、白人の支配に対して黒人が反乱を起こし、全面的な戦争状態に陥った島が舞台となる物語である。
だが、ここで作者が力点を置いて描いているのは、『ペンテジレーア』と同様に、むしろ両性間の憎悪と対立、葛藤であるように思える。
内心で白人に憎悪を抱いている黒人の母娘に宿を借りることになった白人の青年は、白人の圧制に苦しんできた黒人たちの心情に一定の理解を示しながらも、黒人のある若い女性が白人の男に対して行った「復讐」について物語るうち、次第に感情を昂ぶらせる。それは、かつて主人に言い寄られて応じなかったためひどい扱いを受けたこの女性が、今回の暴動が起きてから、自分が黄熱病にかかっていることを知りながらこの主人を騙してベッドに誘い、この不治の病気を感染させたという話である。

客はナプキンを卓上に置きながら、自分の気持ちから判断するならば、白人の圧制がどんなにひどかったにしろ、こんな卑劣な、忌まわしい裏切りは許されるべきものではない。こう語った彼は興奮の色を浮かべて立上がりながら更に言う。あんなことをするにおいては、当然白人に下るべき天罰も沙汰止みとなり、天使すらもそのため反抗心を起して、かえって不正の白人の味方となり、神と人との秩序を保たんがために裁きを下し給うであろう。(p123)


この「裏切り」に対する激しい感情は、やがてこの作品のクライマックスでの悲劇へとつながっていく。
クライストの生涯の最後と同様に、それは暴力的な形による異性間の「愛」の終焉として描かれる。
千のプラトー』でドゥルーズ=ガタリが示唆したように、この作家は、こうした「愛」と欲望の破滅的な攻撃性に魅了されていたといえる。そこに彼は、人間間の関係の、あるいは人間存在の、なにか本質的なものを見ていた。
これは、人間の歴史における「非社交的社交性」の重要さを強調したカントの考えに通じるだろう。


同時に、ここに見られる憎悪の図式のようなものは、性的な局面における両性の間に見られるだけでなく、より普遍的なものを含んでいると思う。
それは、上の引用文の最後の「神と人との秩序」という語に集約されているだろう。
どんな理論上、理念上の正義や寛容にも優先してしまう「秩序」が存在し、それは何をおいても守られるべきだという「心情」や「正義感」。それが、他の人間集団や個人に対する人間の、とりわけ支配的な立場にある側の人間をとらえやすい感情であり、そこから大きな暴力や抑圧、支配の正当化といったものが生じてくる。
だからこの作品はやはり、人種間、また人間間の対立の、ひとつの根源的な部分に触れているともいえるのかもしれない。


このほかでは、『ロカルノの女乞食』や『聖ツェチーリエ』も忘れがたい作品である。

O侯爵夫人 他六篇 (岩波文庫 赤 416-4)

O侯爵夫人 他六篇 (岩波文庫 赤 416-4)