一枚の写真から

http://www.asahi.com/international/update/0731/TKY200907310439.html

このロイター配信の写真は、毎日の夕刊にも出ていて、そちらでは表情がよく分かったけど、他の三人に比べてクローリーという巡査部長の表情の険しさがすごく目立った。
もちろん撮るタイミングなどもあるから一瞬の印象では言えないけど、テレビで報道されていた当人の会合後の記者会見の表情や発言をみても、「納得できない」という気持ちをもっとも露にしているという印象だ。


ぼくは、この人の表情を見ていて、ドキュメンタリー映画ハーヴェイ・ミルク』に出てきた、ミルク殺害犯のダン・ホワイトという人を思い出した。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090521/p1

ホワイトは、白人の元消防士で、地域のなかでも信頼されており、ミルクたちと共に選ばれて市の委員になっていたのだが、自分が市長やミルクたち、マイノリティや「進歩的」な考えの人たちから阻害されているように感じたらしく、突然犯行に及んでしまう。
もちろん、このクローリーという警官がそんな行動をするだろうとか、同じような心境にあると断定するわけではなく、白人のなかでも保守的な価値観や心情を持っている人たちが感じているだろう不満を、この人の言葉や表情が代弁しているように思える、ということだ。


上の写真を見ると、オバマも今回誤認逮捕された黒人の教授も、笑っていたり穏やかに話しているように見える。
それはきっと、(オバマが最初に言って非難されたように)人種的な偏見による誤認逮捕というひどい事件であっても、こういう形で「和解」を演出しなければ収まらないという差別的な現実がアメリカの社会にあって、だから前言を翻すかのようにしてこの席を設けたオバマの苦しい立場を、黒人である教授は理解したからだろう。
ほんとうを言えばこの会合は、権力者でもあるオバマ自身はともかくも*1、被害者の教授をはじめとして多くの黒人たちにとっては(もっとも黒人の警官もいるわけだけど)、屈辱的なものだったに違いないと思う。
でもそれを、黒人である自分の側が表情や言葉に出してしまうことが、やはりマイノリティーの大統領であるオバマの政治的な立場を危うくするだろうし、それを別にして考えても良い効果をもたらさないという苦い経験的な判断、知恵のようなものがあったから、教授は、またおそらくオバマ自身も、いわば表情の下に感情を隠したのだろう。


だが白人の警官の側は、ここで「白人」という言葉は、「鍵を無くして自分の家に窓から入ろうとしていても外見を理由に不当逮捕されないような集団の人たち」と言い換えてもいいけど、不満の表情をあらわにしたり、言葉にしたり、場合によっては暴発的な凶行に及んだところで、心配するような実害はない。
つまりそうすることによって、自分たちの集団に属する子どもや、多くの同胞たちが多数者からの迫害を受けたり、さらなる偏見にさらされることを気遣う必要は、リアルなものとしてはないということなのだ。


そして、少数者の側がどれだけの屈辱を、同じひとつの状況の下で感じ、それを耐え忍んで表情にあらわさないようにさえしているかということへの斟酌はほとんどないままに、マジョリティ内部の「不当さ」の気持ちは膨らんでいく。
それは、権力なり新たな価値観の拡大によって、自分たちが頼り信じるもの、その基盤が侵されていくということへの不安につながっているだろう。
ぼくには、あの写真の巡査部長の表情は、「黒人や権力者たちにまるめ込まれる」ことを拒否し、自分の正義感を貫こうとしているもののように思える。恐らく同じ心情を、多くの白人のアメリカ国民が抱いているであろう。
ミルク殺害事件も、同じような一方的な心情、独善的なルサンチマンによって引き起こされた犯行であったと思う。
その真の犯人は、ホワイトのような一個人ではなく、こうした閉じられた感情を持つように人々を仕向け、ときには扇動しさえする、社会権力の仕組みであるというべきだろう。
オバマについては、「人種を越える」というような表現がよく使われるが、打ち壊されて越えられるべきなのは、権力によって作り出され、ぼくたちのなかにもそびえている、この見えない壁の方なのだ。

*1:やはり権力者であるバイデンも、無論険しい表情はしていない。