『資本主義と奴隷制』

 

 

 

エリック・ウィリアムズの『資本主義と奴隷制』。

まず、書かれたのは第二次大戦中。著者は、トリニダード出身の黒人の学者だが、運動家・政治家としても著名な人で、後に同共和国の初代首相となる。

 

概要は、イギリスの近代奴隷制の歴史で、17、8世紀の重商主義時代に行われた奴隷労働による生産(西インド諸島の砂糖プランテーション)と奴隷貿易自体とがもたらした富が、19世紀の産業革命自由主義経済体制の基礎を作った、ということ。そして、その自由主義経済体制(=新帝国主義)によって、奴隷制、すなわち重商主義と「独占」の時代は否定され終焉することになった、という歴史観

つまり、著者は近代の奴隷制を、重商主義や「独占」(非自由貿易、ブロック経済みたいなもの)と不可分のものと考えていて、産業革命以後、英国が全世界を市場にすることが可能になると、より大きな利潤を得るためには「独占」は邪魔になり、それと結びついた奴隷労働・奴隷制も無用の長物になった。だから、英国は奴隷制を廃止し(1833年)、自由主義新帝国主義)時代の幕を開いた。

 

元々、西インド諸島の砂糖プランテーション奴隷制が採用されたのは、砂糖の生産(サトウキビの栽培)には集団的な強制労働という生産様式が適合的だったからだという。他の作物では、自由農民が個人的に作った方が生産的なものもあるが、サトウキビはそうではなかった。

そして、初めのうちは、黒人(アフリカ人)ではなく、英国内(アイルランドを含む)の貧しい白人たちが、この強制集団労働をやらされていた。この事実は、あまり知らなかった。西インド諸島流刑地みたいにされていて、微罪や冤罪で捕らえられた人、あるいは政治犯などが、死刑を免れる代わりに、送り込まれて働かされた。また、子どもを誘拐して売り飛ばす、ということも普通にあったらしい。

こうして膨大な数の白人たちが、奴隷船同様の船に押し込まれて送られ、働かされたのだが、ただ彼らは「奴隷」とは違っていたことを、著者は明言する。「白人奉公人」と呼ばれるが、一代限りで、身分が継承されるということはなかったし、刑期や一定の年期が開けると「解放」されて自由農になった。こうした自由農は、独立心が強く、政治的にも民主主義の志向が強くて、支配層にとっては厄介な存在だった。

そうした政治的な事情と、労働に対する適性のようなものもあって、白人ではなく黒人による奴隷労働が選択されたのだと、著者は言っている。

著者の基本的な考えの一つは、「人種差別は、奴隷制労働の産物である」ということだが、これは「黒人は生来、奴隷になることに向いている劣った人種だから、奴隷になったのだ」という誤った思想を反駁することに力点があるので、レイシズムの問題を軽視してるわけではないと思う。

 

さて、奴隷による砂糖の生産だけでなく、奴隷貿易自体も英国に富をもたらしたと、先に書いた。これは、他国にアフリカの奴隷を売りつけたり、送り込んで送料をとった、ということも勿論あるが、もう一つは、アフリカで奴隷を獲得するときに、アフリカの支配層に対して様々な贈り物(織物や、貴金属、銃、ガラクタなど)を見返りとして送ったらしい。それを奴隷業者が発注したことで、英国各地の諸産業が大儲けした、というのである。

このへんは、今日、どのぐらい論証されてるのか、よく分からない。ただ、ここからうかがえるのは、産業革命以前の時代には、アフリカの経済や文化(もちろん支配的な人たちのことだが)は、欧州よりも豊かだったのではないか、ということだ。実際、当時は綿織物がアフリカで最も好まれたのだが、当時の英国の織物の技術力では、インド製の綿織物のレベルに太刀打ちできなかったので、これは商品(贈り物)にならなかったという。

このあたりのことについては、グレーバーの『負債論』に、現地で伝統的に行われてきた奴隷の獲得や譲渡という行為(それはアフリカに限らず、全世界に見られる)が、近代の欧州資本主義社会の奴隷商人たちの出現によって、どれほど破滅的なものに激変したかが、詳細に書かれていた。

 

ところで、重商主義時代の英国の富の源泉だった西インド諸島の砂糖プランテーションは、また英国の「大陸植民地」、つまり北米の農業生産と深く結びついていた。したがって、米国の独立は、当時、英国の繁栄の時代の終焉を意味すると思われたのだが、実際には、ただ西インド諸島植民地が没落しただけで、英国の経済は、さらなる発展の新時代を迎えたのである。それは、奴隷制に変わる、新たな、そしてより大掛かりな資本主義的収奪の時代の始まりだったとも言えよう。

この本で、特に興味深かったのは、19世紀初め頃の、重商主義経済の失墜(産業革命による)と軌を一にして起こった、英国国内の奴隷制廃止論の熱狂についてのくだりである。

ここで著者は、一部にはたしかに、真の人道主義者と呼ぶべき人たちが居たことを認めながらも、この奴隷制廃止論が、全体としては「重商主義から自由主義新帝国主義)へ」という資本主義のモデルチェンジの枠内にあって、それを促進する機能しか果たさなかったことを書いている。

それは、この「熱狂」もその一部であった、1830年頃の英国内の「自由」を求める政治的な激動、選挙法改正をめぐる民衆の動きにしても、同じだった。

奴隷制廃止運動の場合、それは最終的には、英国の奴隷制のみを廃止し、英国がそこから利益を得る貿易の相手国(ブラジルや米国、フランスなど)の奴隷制については支持するという、まったくの「自由経済の論理」に収斂していった。また、この論者たちは、「かわいそうな黒人」に同情することには熱心だったが、貧困や侵略戦争など、その他の社会問題には関心を示さなかった。彼らは、解放された奴隷が土地を持ちたいと思うなどということは夢にも思わなかったので、解放されても黒人たちは貧しい使用人のままだった。1833年に、実際に奴隷制が廃止された時、黒人たちは教会に集まって神に感謝の祈りを捧げ、そして静かに仕事場に戻って行ったという。

実際に、黒人をこうした被搾取状態から解放し、資本のくびきを打ち砕く行動を起こしたのは、ひとり「奴隷たち自身」のみであったことを、最後に著者は強調している。西インド諸島の各地で起きた反乱は、資本家たち、白人の支配者たちを震撼させた(その反乱に対する「報復」は、今も続いているが)。この時に、反乱の中心となったのは、雇い主に信頼され、その腹心のようになっていた従順な奴隷たちだった。そのことが、かえって支配者たちをおののかせたのである。