『サラエボの花』・証明されえぬもの

公式サイト
http://www.saraebono-hana.com/


ボスニア内戦を生き延びた女性エスマと一人娘サラの母子を中心にした物語。
描かれるのは戦争の記憶そのものではなく、その記憶に蓋をしようとするかのように流れていく殺伐とした「現在」の街と人々の光景である。
廃墟になったビルなどを別にすれば、それらは、ぼくらが見慣れた近郊都市の風景とほとんど変わらない。
主人公をはじめ人々は、過去を忘れたかのように生きているが、そうしなくては生きていけない現実、戦争ではなくても、平和ともとても呼べないような日常がそこにあることが分かる。
登場人物の一人が、かつて殺しあったセルビア人とムスリムの人々について、「戦争中より憎みあってる」と嘆く場面が、たいへん印象的である。


エスマも、戦争中の出来事は忘れたかのようにして日々を送っている。
印象深いのは、テレビで見たドキュメンタリーのなかのブラジルの貧しい人たちの姿に「同情した」と語るシーンだ。「同情」は、ふつうよくないことのように言われるが、他人に対してそういう心情を持たなければ、自分を保っていくことができないほど、重いものを抱えているということではないかと思った。


エスマは、サラの修学旅行の費用が工面できないことで悩んでいる。
サラは、父親はシャヒード(殉教者・内戦での戦死者を指す)であると聞かされており、シャヒードの遺族は旅費が免除されると聞いて、その証明書を学校に提出するよう母に頼む。
だが、エスマには、それが出来ない事情があった。
その事情については、ここでは伏せておこう。


見ていて感じたのは、「証明書」の有無によって人の死の価値のようなものが定められてしまう、いや、事実(出来事)の重みが左右されてしまうことの理不尽さ、軽薄さである。
それは、「殉教者」か否かで、人の死に、また遺族たちの心情に差がつけられてしまうことの理不尽さと結びついている。
事実には、証明できるものと、証明できないものがある。というより、証明できる要素と、証明できない要素によって、事実というものは成り立っていると言ってよい。
「証明」が重要なのは、そのことによって出来事の「証明できない要素」に光をあてることが出来るからだろう。
「殉教者」としての死だけを尊重し、その遺族だけを優遇するという制度は、人の死という事実(とくに遺族たちにとっての)を、「証明できる要素」だけに縮減してしまおうとすることだ。
つまり、人の死や、残された人たちの生に蓋をする、出来事をなかったことのようにして生きることを強いることである。


人が生きるうえで起こる出来事にとって、証明できる部分など、じつは何ほどのことでもない。
「証明」とは、なんらかの同一性を確認するということだ。たとえば、私はどんな属性を持っており、誰の子どもであり、というような。
だが、そうした確認が得られなくとも、ともかく私は存在する。それ以前に、ともかく他人は(あなたは)、すでにそこに生きて存在しているのである。


この映画の最後で、作り手たちがエスマに語らせたのは、そのメッセージに他ならないと思う。
それは、この映画のタイトルの由来でもあるらしい。
そしてその受け取り手は、あの見覚えのある街の風景のなかに生きる、ぼくたち全てであるはずだろう。


(答えは映画館で)