互酬的共同体の権力性についてのメモ

きのうのエントリーに、柄谷の共同体批判について書いたが、そこで引用しようと思っていて、ややこしくなるのでやめた文章。

近年にいたるまで、世界各地の人口の大多数を占めるのは農民か、都市の貧民でした。彼らは商品交換の世界にさらされてはいるが、互酬の原理で生きている。誰かに金が入れば、みんなで使う。それは平等主義的で相互扶助的ですが、悪くいえば、怠惰で、社会的に上昇しそうな他人にたかり、その足を引っ張るような共同体です。したがって、労働力の商品化に抵抗するのは、いわば共同体の原理だといっていいでしょう。それが経済的な停滞の原因でもあり、同時に、資本主義化に抵抗する基盤でもありえたのです。
 一九九〇年まで、そのような世界は「第三世界」と呼ばれていました。(『世界共和国へ』p149〜150)


第三世界」というものについて、これだけ実も蓋もない解説をする人も珍しいだろう。
この共同体のイメージは具体的には、柄谷の盟友だった中上健次の小説に出てくる「路地」からきているものだろうと思う。
それにしても、なぜこうした共同体ではいけないのかと、思う人があるだろう。
ネオリベ的な立場からは、こうした共同体は、かならずしも否定されるべきものにはみえないはずだ。
ひとつの考えとして、こうした共同体は個人が抵抗する力を奪ってしまう、という言い方もできる。
だが、ぼくが思うに、こうした共同体が国家や資本に抵抗するのに、結局有効ではないのは、それが互酬的であることによって、不可避的に権力的になるから、つまり「ミニ国家」のようなものになってしまうからだ。
それは、互酬的ということが、心理的な負債や、それをとおした支配の関係を、どうしても生み出してしまうものだからだ。
柄谷は、こういうタイプの権力性に非常に敏感なのだろう。


酒井隆史の『暴力の哲学』を読むと、ジュネが、アメリカのブラックパンサーの運動とかかわっていたとき、この運動は都市部の黒人の貧困層に対して、まさに相互扶助的なコミュニティ活動(炊き出しとか、教育とか)みたいな実践を行っていたのだが、その男性中心主義的な性格を批判していたと書いてある。
それは、男性中心主義的というだけでなく、異性愛中心主義への批判でもあったのだろうと思うが、柄谷の共同体批判と似たようなニュアンスがあったのかもしれない。
つまり、相互扶助的な実践を行っていたにもかかわらず権力的であると言って非難したのではなく、相互扶助的だからこそ権力的になりやすいのだと、言いたかったのかもしれない。


市場原理みたいなものを批判するのはたやすいが、その外側で共同性を作ろうとすることが、「ミニ国家」の形成につながらないことは難しい。
ジュネが感じとっていたのも、そういう形での関係性の破損みたいなものだろう。