物乞いの聖人

よく耳にする話だが、野宿をしている人で、とくに年配の人のなかには、生活保護を受けることを頑なに拒む人が少なくないらしい。


これはたとえば、「生活保護スティグマになっているから」だろうか?たしかに、その可能性もある。だとすると、「生きていく」ことがなんらかの心理的な負債を負うことで達成されないというような社会は、やはりおかしいと思うから、いま「ベーシック・インカム」(だっけ)ということが議論されているように、生を可能にする最低限のレベルというのは、無条件で全員に付与される制度にするべきだろう。
その限定のうえで、競争を好きなだけやればいい、と思う。「自由競争を制限してはいけない」といっても、もともと今の市場経済というのが国家や軍隊の強大な力によって保証されているようなものだから、ある意味では全然「自由」ではないのだ。「自由」を成立させるための枠組みを変えればいいというだけの話である。


ただ、この野宿者の人のような話は、いろんな問題を含んでいる。
この人が拒んでいる理由は、本当に保護を受けることを「スティグマ」や「負債」と感じてるからだろうか?
あるいは、最近ではとくにひどいそうだが、申請しても行政が露骨に門前払いしたりするからだろうか?
ひとつ考えられることは、こういう人にとって、たとえば空き缶を集めたりして自力で生き抜いていくということが、その人の生の「意味」や「価値」になってるということだ。これは、「誇り」という言葉を使わなくても、毎日のその「労働」が、その人の生きてきた人生全体に対する愛着の内実であり、証明になってる場合がありうる。
そういう部分を大事にする考えをもたないで、ただ制度だけを整えればいいということではあるまい。
「労働」が、自分の人生の意味になっている人もいるのだ。それが資本主義のサイクルに含まれる労働ではなくても。
農民から土地を奪うように、この人から「労働」を奪うべきではない。
ただしそれは、今の資本主義のあり方を支持するということではなく、むしろ「労働」を現代の資本から人間の手に取り戻す、みたいなことだろう。


大事なことは、「働くか働かないか」でも、「保護を受けるか受けないか」でもなく、その人が生きているうえでの、「個」という単子みたいなものには還元できないような部分、それを基盤にした単純な自由競争のフィクションには回収されないような生の要素を、尊重していく、ということだ。
その、生きるために必要な「余剰」みたいなものを大事にすることを基盤にして社会を考える習慣を、少しずつでもみんなが持つようにしていくこと。残念ながら、これ以外に、いまの世界の流れに対抗する方法は思いつかない。


考えられるその方法のひとつは、生を本質的に受動的なものとしてとらえるということだ。つまり、「自由な主体」が、できるだけの努力をする自由はもちろん尊重されるべきだが、その成果には、必ず「運」とか「偶然」的な要素が関与するのだ、という考え方の普及。
ベンヤミン柄谷行人が、「くじ引き」の効用を強調したことの意味が、最近やっと分かってきた。


ブエナビスタ・ソシアルクラブ』という映画のなかで、キューバの年老いたミュージシャンが、「物乞いの聖人」について語る場面があり、こういう聖人を大切にしなくなったのがアメリカの一番悪いところだ、みたいなことを言う場面があったが、あれは核心をついてると思う。
「物乞い」こそ、人が自力のみでなく、最終的には他人の力によってこそ生きる存在だという倫理を、象徴する存在だからだ。この倫理の欠落が、つまりアメリカ合衆国であり、キューバの老ミュージシャンは、それを知っていたのだ。
とはいっても、あの映画の最後で、このミュージシャンは生まれてはじめてニューヨークに行って、その繁栄ぶりに驚き、「今まで自分たちは騙されてたのか」みたいなことを言う。そこもまた、面白い。


「他力」というと、日本では誰でも親鸞のことを思い出すだろう。
でも、彼の宗教が、やがて教団的なものに変わっていき、さらに支配権力とも癒着したということのいう意味は、よく考える必要がある。
何が、欠けていたのか。