カール・ポランニー『経済の文明史』

 

経済の文明史 (ちくま学芸文庫)

経済の文明史 (ちくま学芸文庫)

 

 

カール・ポランニーが、市場メカニズムに支配された19世紀以後の自由主義的資本主義を批判して、「労働、土地、貨幣」の三つの擬制(フィクション)ということを言ったのは、よく知られている。

この三つは、産業資本主義(それが自由主義的資本主義、つまり市場メカニズムの支配を要請したのだ)の基盤をなす条件のようなものだが、あらゆるものを商品化する自由主義的資本主義は、それら「基盤」をも「商品化」してしまう。だが、それらは本来、商品化できるはずのないものである。だから、それを擬制(フィクション)としての商品と呼ぶわけである。

ポランニーは、労働とは実際には人間のことであり、土地とは自然のことだとも言っている。

労働(人間)、土地(自然)、貨幣という三つの基盤を商品化して破壊するという行為によって、市場メカニズムに支配された経済システムは、社会(そして自然)に甚大な破壊をもたらす。ポランニーの思想を、このような警告として読むことは、現在、とくに求められることだと思う。

ポランニーが、このような考え方を作っていったのは、第一次大戦後の、グローバルな資本主義の拡大に伴う重層的な破壊が顕著になった時期だった。それは、戦災や流行病の世界的蔓延のみならず、戦時の信用経済の肥大が原因となった大恐慌からファシズムの台頭、そして第二次大戦という時々の現象を追ってはいたが、こうした一連の破壊の根底にある力が何であるかを、ポランニーは常に見つめ続けたわけである。

彼の思想が、近年また多くの人に想起されたのは、2008年のリーマン・ショックの時だった。この時は、「労働、土地、貨幣」のうちの貨幣に焦点があてられたわけだが(実際、ポランニーの貨幣論は多くの人に影響を与えただろうが)、今回は、残りの二つについて特に考えざるをえないだろう。だがもちろん、これら三つの要素の根底にある破壊の原動力は一つなのだが。

たとえば1944年に書かれた次の文章を読むとき、ポランニーの根源的な洞察の鋭さに、あらためて震撼せざるをえない。

 

 

 

市場メカニズムが人間の運命とその自然環境の唯一の支配者となることを許せば、いやそれどころか、購買力の量と用途の支配者になることを許すだけでも、社会の倒壊を導くであろう。なぜなら、商品とされる「労働力」は、この特殊な商品の担い手となった人間個人に影響を及ぼさずには、これを動かしたり、みさかいなく使ったり、また、使わないままにしておいたりすることさえできないからである。このシステムは、一人の人間の労働力を使う時、同時に、商札に付着している一個の肉体的、心理的、道徳的実在としての「人間」をも意のままに使うことになるであろう。文化的制度という保護の覆いを奪われれば、人間は社会に生身をさらす結果になり、人間は、悪徳、倒錯、犯罪、飢餓などの形で、激しい社会的混乱の犠牲となって死滅するであろう。自然は個々の要素に還元されて、近隣や景観はダメにされ、河川は汚染され、軍事的安全は脅かされ、食糧、原料を産み出す力は破壊されるであろう。最終的には、購買力の市場原理が企業を周期的に倒産させることになるであろう。というのは、企業にとって貨幣の払底と過剰が、原始社会にとっての洪水や旱魃と同じくらいの災難になるであろうからである。たしかに、労働市場、土地市場、貨幣市場は市場経済にとって本質的なものであることは疑いない。しかし、ビジネスの組織だけでなく、社会の人間的、自然的実体が、粗暴な擬制のシステムという悪魔の碾臼の破壊力から保護されなければ、いかなる社会も、そのような粗暴な擬制のシステムの力に一時たりとも耐えることはできないであろう。(「自己調整的市場と擬制商品―労働、土地、貨幣」)