祖国について・補足

他にも書きたいことがいくつかあるのだが、ちょっと補足。
さきほどのエントリーのブックマークに、「遠くにありて思うもの」とあったけど、たしかにそうだと思う。


パレスチナ人や在日などの在外朝鮮人(分断状況を考えると、朝鮮半島に住んでても、朝鮮人はすべてそうだとも言えるが)を例に挙げるまでもなく、そこに容易に行けないということが、「祖国」という概念に感情的な実質を与えるのだと言えるだろう。
ドミニカやブラジルとかアメリカとか、海外に移民した日本人の話を読んでいても、それが分かる。
そこまで極端でなくても、「離れていること」が、「祖国愛」の重要な要件であることは、一般的にも了解しやすいと思う。


「祖国」と「祖国愛」との間には微妙な差異があり、後者になると、そこからさらに「愛国心」というより国家に近い感情に変容していく可能性も広がる。
岡真理があの本で言ってるのは、たしかに「祖国愛」というものに単純に結びつくような実在的な「祖国」ではなくて、喪失してるゆえに、あるいは奪われているがゆえに想起しうるような理念、ある種現実性から切り離されたものとしての「祖国」なんだろうけど、ただそれは現実にこの地球上にあって人々が暮らしていてという、フィジカルな条件がないと成立しない「場所」であることもたしかだ。
ここが、すごい重要なポイントだと思う。
集団的な理念には危険な「実質」みたいなものがないと、現実に人間を救えない。
だから、本来「ありえない場所」であるはずの「祖国」が、「祖国愛」を経由して、知らない間に現実の国家と結びついていたりすることも起こる。
「祖国はいいけど国家は駄目」というふうにすっぱり割り切れないんだな、きっと。


あらためて言うと、ぼくはこの「祖国」にあたるものは、個人を集団的な生に結びつける装置であれば、なんに置き換えてもいいものだと思う。別に、「国」という単位にこだわる必要はない。
ぼくが今の日本という国家を「祖国」としてとらえられないのはいいとしても、人間として生きていくために(人間には集団的な生も不可欠だと思うから。いや、少なくとも、それもあったほうがいいから)、そうした装置は無いと困るんじゃないかと思う。
でも、そうしたものは必ず危険性をはらむ。多分だからこそ、生きている人間を勇気づけたり、救ったりできるのだが。