『生政治の誕生』(アメリカの新自由主義)

(承前)


インフレ傾向にあるそのような国家批判、そうしたある種の弛緩に対して、ここで私からいくつかのテーゼを提案させていただきたいと思います。それはおおざっぱに言うなら私がすでに述べたことを貫いていたテーゼであり、これからそれを簡単に総括してみたいと思います。第一に、福祉国家や厚生国家は、全体主義国家、つまり、ナチス国家、ファシズム国家、スターリン主義国家と同じ形態を持っていないのはもちろんのこと、同じ根元や同じ起源を持ってもいない、というテーゼ。私はまた、全体主義国家と呼ばれうるような国家を特徴づけるのは、決して、国家のメカニズムの内発的な強化と拡張ではない、というテーゼも提案したいと思います。(中略)全体主義国家の原理は、国家的ならざる統治性の側、政党の統治性と呼びうるようなもののなかに探さなければなりません。政党という、特殊で、非常に奇妙かつ新しい組織。十九世紀末にヨーロッパに出現した非常に新しい政党の統治性。(p235〜236)

フーコーは、このように述べて、そのスタンスを明確にしている。
彼は、新自由主義者たちのように「国家の否定」に与するのではなく、全体主義国家のみを否定するということ、そして全体主義国家が生み出される原理は「政党」のうちにあるということだ。
ただし、その後、フーコーはこのテーマを深く論じることはなかったらしい。


さて、ドイツの新自由主義の分析に続いて、フーコーは、この講義が行われた当時(1978〜79年)のフランスの新自由主義、さらにアメリカ(米国)の新自由主義の分析に入って行く。
第二次大戦の敗戦と、ナチスの否定、そして分断によって国家が解体状態となったドイツとは違って、戦後のフランスでは(そしてイギリスでも)、戦時中にプログラムされた統制経済的な国家の状態が存続してきたが、70年代後半にその資本主義経済が一定の行き止まりに直面した時に、フランスは新自由主義モデルを採用することになった。

まず忘れてならないのは、ドイツ新自由主義モデルのこうした伝播が、フランスにおいては、強固に国家化され、強固に統制経済的で、強固に行政的であるような統治性から出発しつつ、そこに含意されるあらゆる問題を伴ってなされたということです。(p238)

この、戦後のフランスがとってきた、国家化され、統制経済的で、行政的であるような仕組みについて、フーコーは具体的に、(完全雇用社会保障を目的とした)「国民連帯モデル」とか、(再分配による)「集団消費政策」という言葉で特徴づけている。それはいわば、経済的なものと社会的なものとを一つに結びつけたような政策である。
 産業構造の変化などの理由によって、そうした政策による仕組みがうまく機能しなくなった時に、新自由主義モデルが導入されることになった。
 このへんの話は、日本の新自由主義化を体験した僕らにとっては、「だいたい知ってますよ」と言いたくなるところだが、まあフーコーの話を少しだけ聞いてみよう。

そして問題は、経済的なものと社会的ものとをそのようなやり方で切り離すにはどうすればよいのか、ということです。そのような連結解除を行うにはいったいどのようにすればよいのだろうか。(p248)

 フーコーは、実際に新自由主義モデルの導入を遂行しようとしていたジスカール・デスタン政権の政策を分析して、そこに経済をゲームとして捉え、政府の果たすべき役割はただ人々にゲームに参加する機会を保証することだけであること、それ以外の、ゲームそのものに影響するような介入を決して行わないようにするという、「社会保障」についての根本的な考え方の転換を見出している。

ところで、非排除の規則が必要であるという考え、社会的規則、社会的規制、その極めて広い意味における社会保障は、ただ単に、経済ゲームに対する非排除の保証をその機能とするのであり、これを除いてはこのゲームはそれ自体によって展開されなければならないという考え、これこそが、多少とも明らかな一連の措置のなかで用いられた考えであり、いずれにしてもそこで素描された考えなのです。(p249〜250)

 今も、ハローワークに行って雇用保険の申請をすると、再就職(就労)の意欲をそがない程度に抑えられた金額の給付が、求職行動の義務付けや技能習得のためのセミナー参加のお勧めとセットで提供される。もちろん、ありつけるのはたいてい非常勤の不安定な仕事だが。「ゲームの邪魔をしないような社会保障」というのは、まあそういうものだろう。
 さらにこの後、(新自由主義社会保障の代表例としての)「負の所得税」についての論究もあるが、いずれにせよ、もはや「完全雇用」の実現に重点を置かない、市場原理的な社会への転換を図っていた、当時のフランスの実情が語られている。


 このフランスの新自由主義についての言及は、わりに短かく、話はすぐにアメリカの新自由主義に移っていく。
 米国においては、「自由」は、特別で動かすことの出来ない国是(イデオロギー)のようなものだといえる(「開拓」以来の歴史を考えれば当然とも思えるが)。そういう国において「新自由主義」は、どんなあり方を見せるのか。
 さしあたり、ここで重点が置かれているのは、新自由主義者たちの「労働」についての考え方だ。フーコーは、新自由主義の特徴を、経済学の歴史上かつてないほどに「労働」という概念を重視したことに見ている。

結局のところ、新自由主義者たちの問題は、古典派経済学に対する、古典派経済学による労働の分析に対するこのような批判から出発しつつ、労働を経済分析の領野のなかに再導入することです。(p271)

 ただし、この「労働」というのは、労働者である個人の、合理的かつ戦略的であるような「活動」のことを指している点が肝心だ。

経済学、それは、したがって、もはやプロセスの分析ではなく、活動の分析です。つまりそれは、プロセスの歴史的論理の分析ではもはやなく、個々人の活動の内的合理性、戦略的プログラムの分析なのです。(p274)

労働を経済学的観点から分析しようとするやいなや提起されることになる根本的、本質的な問題、いずれにしても第一義的な問題、それは、労働する者が自分の自由になる資源をどのようにして使用するのかを知ることです。(中略)したがって問題は、労働者の視点に身を置くことであり、そして労働者を経済主体とすることです。(p275)

 このあたりは、「フリーター」世代の最年長部にぎりぎり引っかかっている僕などが読むと、やけに身につまされるものがある。
 ここから、労働力(労働者自身)を資本として捉える考え方が出てくると、フーコーは言う。いわゆる「人的資本」だ。

労働者の視点から経済学的に分解されるとき、労働に含まれるのはまず、資本です。(中略)それは、労働力という考え方ではなく、能力資本という考え方です。(p276〜277)

したがって、次のような考えに到達します。賃金とは、ある種の資本に対して割り当てられた報酬、所得に他ならない。そしてある種の資本とは、人的資本と呼ばれることになる資本である。(p279)

 フーコーは、この「人的資本」という考え方を、アメリカの新自由主義をもっとも特徴づけるものとして示した後、その考え方の帰結を具体的にあげていく。それは、「人的資本」には「先天的要素」と「後天的要素」があるという、新自由主義者たちの考えだ。
「先天的要素」とは、フーコーは「遺伝学」と言っているが、「優生学」と言った方が的確だろう。

別の言い方をするなら、遺伝学を人口に対して適用することの現在的な意義のうちの一つは、リスクを背負った個人を識別すること、個人がその生涯を通じて冒すリスクのタイプを識別することです。(中略)よい遺伝学的装備の希少性というこの問題から出発して、個人の生産のメカニズム、子供の生産のメカニズムが、経済的かつ社会的な一つの問題系一式を見いだすことになります。(p280〜281)

そして、一つの社会が人的資本一般の改良という問題を自らに対して提起するやいなや、個々人の人的資本の管理、選り分け、改良が、もちろん結婚やそこから生じる出産に応じて、問題となったり、要請されたりせざるをえません。(p281)

 一方、「後天的要素」とは、ブルデューの言う「文化資本」のことと言っていいだろう。
広義の教育環境、親が子供にかける世話や時間の量、両親の教養レベルといったことを含めて、その総体が「人的資本」としての子どもの「優劣」を決定すると見なされることになろう。
 このあたりも、いま読むと、非常に現在的な感じがするのである。


 フーコーは続いて、アメリカの新自由主義を、いま一度ドイツのそれと対比される。
 オルド自由主義の「オルド」という言葉は、ドイツ語で秩序という意味だそうだが、実際、その新自由主義の特徴は、市場化の推進ということだけでなく、市場化によって損なわれるような文化的・道徳的な秩序の再構築を、同時に企図するということにあった(「生の政策」)。ドイツの新自由主義は、秩序の再構築を唱える新自由主義でもあったのである。
 これに比べて、アメリカの新自由主義は、やはりはるかにラディカルな面をもっている。その特徴となるのは、フーコーの言葉によれば、社会的なものと経済的なものとの位置関係の逆転というようなこと、すなわち、社会のすべてを経済的な論理によって説明しつくし、操作していく、という態度だ。

第一に、アメリ新自由主義における、通貨の交換以外の場所への市場経済の形式の一般化は、社会関係と個人の行動様式に関する理解可能性の原理、解読原理として機能します。すなわち、市場経済の観点からの分析、つまり需要と供給という観点からの分析が、経済的ならざる諸領域に適用可能な図式として役立つようになるということです。(p299)

 そうした非経済的な(と見なされていた)領域の代表例として挙げられるのは、たとえば教育や出生率であり、結婚だが、とくにフーコーの専門領域の一つともいうべき刑罰システムの例が、綿密に論じられる。
 新自由主義的(経済学的)論理においては、もはや「犯罪者」という人間学的な対象が問題にされることはない。「処罰される」というリスクを前にした一般的な主体の行動様式だけが、考察の対象になるのだ。

一つの行動の主体にとって、一つの行いあるいは一つの行動様式の主体にとって、犯罪とは何であろうか。それは、そうした主体に対して処罰されるリスクをもたらすものである、というわけです。(p309)

主体そのものへの移行がなされるのはただ(中略)主体を、その行動様式を経済学的なものとするような側面、局面、理解可能性の網目のようなものによってとり上げることができる限りにおいてのみのことです。(中略)すなわち、個人に対して行使される権力と個人との接触面、したがって個人に対する権力の調整原理は、ホモ・エコノミクスというその種の格子のみとなるということです。ホモ・エコノミクス、それは、統治と個人との境界面なのです。(p310)

刑罰システムそのものがかかわることになるのは、したがって、犯罪者ではなく、そうしたタイプの行動を生産する人々です。(p311)

 こうした考え方から、次のようなことが帰結してくるという。

したがって、刑罰政策は、(中略)犯罪の完全な消滅を、目標ないし目的とはしないことになります。(中略)刑罰政策は、犯罪市場での犯罪の供給に対する単なる介入をその調整原理とするということ。(p314)

すなわち、消費に関する新自由主義理論に従うなら、社会は、ある種の投資と引き換えに社会を満足させる適合的行動様式を生産するものとして現れるということです。(p313)


 この後、本書の最後の部分では、フーコーは、新自由主義におけるホモ・エコノミクスという概念の成り立ちと、「市民社会」の問題について論じていくことになる(らしい)。