甕とひび

今月に入ってから、朝鮮や在日関連のエントリーをやたらに書いているのは、自分でもちょっと妙な気がする。
今も、「在日朝鮮人の歴史は」とか書き始めようと思ったけど、やっぱりちょっと気がひける。他人のことをネタにしてるような気がするからだ。


もともと、朝鮮のミサイル発射事件とか、その後の朝鮮学校生に対する暴力とか嫌がらせというニュースを聞いて、またメディアやネットの状況もちょっとは見ていて、自分なりに思ったことを書くことで、ちゃんとした議論が活性化する一助になれば、みたいな気持ちで書きだした。
でも、どうしても主語が「在日は」になりがちなのが、気のひけるところである。滅茶苦茶「当事者の声」を横領してるし。でも、なかなか在日の人は、とくにネットなんかだと発言しにくいだろうから、と思うのだが、だからといって、ぼくがその人たちの「代わりに」なにかを言えるはずもない。


在日という他人のことではなく、あくまで自分の気持ち、自分の声を書こうとしているわけである。でも、人間というのは、他人と一緒に、とくに自分と差異のある他者と一緒に生きているものだから、自分の声を発そうとすると、その他者の存在にまず触発されないと自分の声が見つけられない、ということがあるものである。
もともと、「自分の声」というのは、そういうふうに生み出されるもんなんだろう。
だから、在日について書いているときの自分の言葉が、まるきり他人をダシにしたうその言葉、というわけでもないはずだ。


これは、自分にはたまたま在日の友だちが何人もいるからだろうか?
たしかに、それはある。
でもそれだけでなく、こうしたことは自分のなかにある「歴史」というものに関係していると感じられている。自分というものを、よく考えてみるときに、どうしても割り切れないものがあり、その割り切れなさを、ぼくは「歴史」と読んでいる。それは、自分という一個の甕の表面に走ったひびのようなものであり、ひびによって甕は割れ、水はこぼれてしまいそうになるが、それを通して、別のもっと大きく新しい甕に、明確な縁を持たないような新しい甕に作り変えられていく可能性がもたらされるものでもある。
ぼくが本当に関心があるのは、この「ひび」についてなのだ。


そういう新しい甕が現実に作られるかどうか、またそれが本当にいいことかどうかも分からないが、ぼくにとっては、この「ひび」こそが、ほとんど唯一の生きる希望みたいなものだ。もちろんそれは、ぼくに属するものではないが。
これが「自分」だ、これが「自分たちだ」と、いつか誰かから決め付けられそうなときに、それを拒んで、そこに収まらない別の誰かを、つまり他者を見つけだして、ひび割れた切片と切片とを継ぎ合わせようとしては失敗する。その繰り返し。
そういうこと以外に、生きる喜びが、その萌芽みたいなものが、あるだろうか。
そう思う。


最近いつもそうだけど、書き出してからでないと、自分が何を書くのか分からない。
書き終わってみてもよく分からないが。