『花よりもなほ』

松竹の映画のはじめに出てくる、ウサギの人形劇みたいなのの意味がよくわからん。
あれは何をやりたいんだろう。


この映画は梅田ピカデリーで見たけど、お客さんはそれほど入ってなかった。客層としては年配の人が多いのが意外だった。時代劇だからだろうか?


前作『誰も知らない』で世界的な評価を受けた是枝裕和監督の新作だが、正直、ぼくはあまり面白いと思わなかった。
ひとつひとつの場面に切れが感じられないうえ、個々のエピソードがうまくつながってないように思う。だから全体にぼんやりした印象の作品になってしまっている。
主役の二人の演技は悪くないのだが、とくに宮沢りえの方が、どうも画面のなかで生きていない。何より、作り手が「乗っていない」という感じがある。
舞台になる江戸の長屋はテレビドラマにあるような小奇麗な建物ではなくて、スラムそのもののバラックである。住人たちもむしろを衣服の代わりに身にまとってたりして、現代にも通じるリアルさを出そうという意図はうかがえる。でもその映像が、往年の日本映画にあったような迫力を持たず、テレビ的な日常の枠のなかに、それはそれでこじんまり収まってしまっている。その「身の丈」さが是枝作品らしさだともいえようが、『誰も知らない』にあったような微細な日常を描くことのなかにある「毒」のようなものが薄い。
是枝裕和には娯楽作品は向かないということが分かったように思う。


この映画のテーマは、社会のなかで、子どもが親や世間から押し付けられた枠組み、もしくはその不在から自由になり、どうやって自分なりの「生きる意味」を見出していくか、という点にあるのだと思う。これは、『誰も知らない』からのテーマの引継ぎと見ることができるだろう。
岡田准一寺島進と碁を打つ場面は、そのテーマがはっきり示された非常に見ごたえのあるシーンだと思うのだが、そこで主人公が「仇討ち」という社会的な規範に代わって見出す「碁を打つこと」という行為も、やはり父親から教えられたものの再発見である。
どうもこの点に、この作品が持つ「食い足りなさ」が関係しているように思う。


社会の支配的な規範によって、束縛された生と死へと追いやられようとする若者が、そこから身を解き放って自分らしい生き方を見出そうとする。それはいいのだが、その行き着く先の「自由」というものが、ここではその社会の枠組みのなかに最初から織り込まれているように見える。
それは滅多に緊張や破綻を迎えることのない画面のなかに、微小で安全なカプセルのように散りばめられていて、その空気を吸い込むことで登場人物たちは自分たちの「生きる意味」を取り戻した気持ちになるのだ。
庶民の生きるバイタリティーに同一化するという形での「オルタナティブな生の価値の発見」ということが、ここでは社会のなかで「分をわきまえて生きる」ということと同義になってしまっている。


どうも悪口ばかりになるので、ちょっと面白く感じた場面をあげておこう。
浪士たちの討ち入りのとき、その一人である寺島進は結局それに参加せず、生き延びることになる。「腰抜け」と呼ばれて世間の笑いものになるが、彼を金儲けのネタにしようとする長屋の住人たちの作り事の解釈を聞くうちに、それを自分自身信じ込んで、「自分は逃げたわけではなく、浪士たちの行動を人々に語り継ぐためにあえて参加しなかったのだ」と口にしはじめる。
このくだりが面白いのは、武士としての規範に縛られて死地に赴くことと、それを拒んで町人たちの「生の論理」のなかで生きることと、はたしてどちらがこの人物にとって抑圧的か分からない、という側面を描いているからだ。
つまり、この人物は強い「生への意志」のようなものがあって行動への参加を思いとどまったわけではなく、ふっと気持ちが抜けて、現場からきびすを返してしまったのだと思う。それは「規範のなかでの死」を拒んだというだけで、むしろもうひとつの「死への意志」の表れだったのかもしれない。
ともかく、生に向うか死に向うかを規範のなかで決定したくないということだったのであり、バイタリティーあふれる町人たちの「生の論理」は、むしろその非決定性のようなものの存在を押し隠してしまうのだ。
だからといって、この非決定性のなかに、何か積極的な価値が見出せるというわけではないのだが、規範や物語に回収されることのない人間の行動の不思議さのようなものが、その抑圧されるありさまを通して垣間見ることができるように思えた。