同胞について

このあいだの、ワールドカップの日本とブラジルの試合を見ていてあらためて思ったのだが、ブラジルという国は、日本からたくさん移民が行っていて、縁の深い国である。最近では、逆にブラジルから日本に働きに来ている日系人の人も多いようだ。
実際、サッカー関係者でもセルジオ越後みたいな人がいるし、三浦カズとかブラジルで育てられた有名選手もいる。
ブラジルの日系人の存在については、黒澤明の『生きものの記録』のような映画で描かれているのを見ても、戦後の日本社会ではある時期までは人々の特別な関心を引く問題だったことがうかがわれる。この「ある時期」というのは、サンフランシスコ条約とか60年安保とかが関係してるんだろう。


それはどういう関心のもち方かというと、端的に、「そこに親戚がいる」とか、そういうことだったろう。そういうものを、親戚に移民を持つ当人だけでなく、社会全体がなんとなく(薄くだが)共有していたんじゃないかと思う。
日本という国は、戦前に植民地をもち、また海外で大規模な戦争を行ない、それだけでなく、多くの移民を海外に送った。その多くが沖縄や奄美地方などの人たちであったことは重要だが、それだけでなく、東北の太平洋岸地域や紀伊半島の沿岸部など、耕地面積が少なくて海に面した地域を中心に、内地で生きるすべや希望を失った農民などの多くの人たちが、さまざまな思いを抱いて海外に渡ったのである。
たぶん、そういうことを身近に感じるメンタリティーが、敗戦後10年ぐらいは、日本の社会のなかにある程度あったのではないかと思うのだ。つまり、国の制度や領地の外側にいる人たちと、なんらかの同一性を手がかりにしてつながっている、という感じ方である。
何種類もの「われわれ」を作る手がかりとしての同一性を、可能性としてまだ持っていたというか。これは、戦争に負けただけに、その可能性が開いていたということだと思う。
このことが意味しているのは、なんだろうか。


ぼく自身がそうなのだが、いまブラジルから働きに来ている日系人を見ても、「同胞」という言葉がすんなりとは出てこない。
たしかに馴染み深い顔立ちだし、名前も日本風であったりするので、親しみをもつが、そこで「同胞」という言葉を自分のなかで持ち出すことにためらいがあるのだ。
これは、ぼくたちが「同胞」という言葉に含まれている本質主義的な想像力の呪縛から自由になったということかというと、そうではないだろう。


それは逆にぼくたちが、そういう、たとえばネーションのような同一的な枠組みがもつ呪縛から抜け出すための想像の力を失ってしまったことを意味しているのではないか。
つまり、単一でない、さまざまな「われわれ」を作っていくための、人間としての想像の力を、ぼくたちは失っているので、国家やマスコミが提示する単一の「われわれ」に簡単に吸い込まれてしまう。そういう現状があるように思う。
想像力は、同一性に奉仕するだけのものではないはずである。


たとえばぼくたちは、普段街角や公園にいる野宿者の人たちを、なかなか「われわれ」の一人とはかんがえにくい。だから、この人たちの生と死に対して深く考えずにいられるわけだが、これは、自前で「われわれ」を想像(創造)する人間的な力が弱まり、消費資本主義や新自由主義的な国家が提示する単一な「われわれ」の枠でしか、自分と他人を見られなくなっている証ではないか。
同じことは、たとえばアフリカの人たちについてもあてはまるだろう。世界資本主義が提示する枠組みにおいては、あの人たちは「われわれ」の一部とは見なされず、ぼくたちは多かれ少なかれその枠組みを受け入れて日々を生きている、ということであると思う。


こうした状態を、どう変えていくか。変えないと、人間として生きてるということの中味や可能性が衰退し、寂しく狭い生と死しか迎えられないことになる。
ひとつ思うのは、たとえば海外の日系人について「同胞」という言葉を親愛感の表れとして使おうとするとき、ためらいが生じるひとつの理由は、それが排他的な本質主義に通じるのではないか、という危惧であろう。
実際、硬直した同質性の確認としての「同胞」や「われわれ」という概念は、ナショナリズムなどの集団主義を生みだし、それが国家や資本によって利用されて大きな暴力や排除をもたらすということは、どの国においても繰り返されてきたことであろう。


でも、注意したいのは、ある人たちを「同胞」と呼ぶことが本質主義に通じるという考え方は、あくまで、自分の側が「同胞」と感じる(想像する)かどうかということを中心においたものだ、ということである。
つまり、自分がある人を見て「同胞」であるとリアリティーをもって感じられるなら、その想像はたしかになんらかの同一的な集団を無条件に信じて支持することに通じ、排他・排外主義のようなものを生じやすい。


だが、そう想像する「自分」(主観)の側ではなく、目の前の相手の気持ちを中心に考えてみたらどうだろう。長い年月、海外の地で苦労してきた人は、やはり故国の人からは、「同胞」と呼ばれて暖かく迎えられたいはずだ。
これは、自分の内面(主観)が、想像によってどう満たされるかという問題ではない。それを問題にしない限りで、他人を「同胞」と感じる想像の能力は、同一性の確認という機能を越えられるのではないかと思う。


「同胞」と呼ぶことで、苦しんだり悲しんだりしている相手が喜ぶのなら、日系人でもアフリカの人でも、「同胞」と呼んであげるべきだ。それが自分にとって不自然であったり、空虚さや罪の意識をともなう苦しい呼びかけであっても。
自分がどう感じられるか、自分の側のリアリティーが重要ではないのだ。
主観ではなく、相手の立場を中心としたときに、「同胞」という言葉のもつ力は、ナショナリズムや排外主義、そして国家や資本がおしつける同一性の枠組みを、おのずからはみ出していく。
そういう可能性を開くものとして、「同胞」という一見集団主義的な言葉のもつポテンシャルに、ぼくたちはもっと目を向けてみるべきではないかと思う。