ぼくが感じてきたこと、そして

『親を介護するということ』と題した先日のエントリーのコメント欄に、tu-taさんが寄せてくださったコメントへのレスとして、「困難な現実のなかに身を置いている自分」という立ち位置から考えること、発言することが大事だと思うが、ぼくにはそういう自分の状況を自覚すること、意識することが難しいのだ、という意味のことを書いた。
もっと正確にいうと、「困難な現実のなかに身を置いている」ということは分かるのだが、それが「自分」というものと、はっきり結びつかない、ということである。


これは、自分の置かれている現実の困難さを、社会の構造的な矛盾とむすびつけて考えることができない、という意味ではない。社会に矛盾があること、是正されるべき、あるいは改善されるべき事柄があることは分かっている。また、そのことと、(自分が)身を置いている現実の困難さが、あるいはつながっているのかもしれない、少なくとも何のつながりもないとはいえないだろう、ということも思う。
そのように思うことが、つまり「自分の苦難」だけから発して社会のあり方の変革なり何なりを主張するということが、社会や他人に関わっていく動機として十分なのかどうかということは疑問だが、ともかく「身を置いている状況」と「社会全体のあり方、問題」とのつながりということは意識しているのだ。
結びつかないのは、そうした個人的でもあり全体的でもある「現実」と、「自分」というものとである。だから、その位置から何かを考え、述べるべきであると分かっていても、それが出来ない場合が多い。要するに、自分のことを自分のこととしてとらえにくいし、語りにくい。
その感じは、ぼくにはいつもあったし、今もある。
しかし、これはそんなに特異なことだろうか?


今販売されている雑誌『ビッグイシュー』のなかで、上山和樹さんは、
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20070602#p1
「ひきこもり」を「ひきうけ」の破綻としてとらえる考えを示し、次のように書いている。

『(前略)問題はもっと根本的なことで、そもそも自分がこの世にいること自体を受け止められない状態では、交渉なんて無理です。』



『ひきこもりは、欲望を主張することによって社会の他者となったのではなく、そもそも「ひきうける」という営みが破綻したことによって他者となってしまった存在であり、その「引き受けられない」という事情については、本人自身にも理解できないままだと思うのです。』


ぼくの感じていること、感じてきたことを、上山さんのそれと重ねられるとは思わない。
「ひきこもり」という生のあり方のなかにあるのは、現実の社会(家族を含む)のあり方に対する非常に強い反応、(感受という受動的な意味でも)生死を賭けた対処のように思えるから、それはぼくがここで書いているような(この社会の仕組みに合致するようなものとしての)生存の感覚の稀薄さとは、むしろ逆のもののようにも思える。
だが、生のはじめというか、一番根本の部分において、社会的な関係、社会への参加なり働きかけの前提となるはずの、自分の生を「ひきうける」という「プロセス」が、十分になされていないという感覚は、ぼくにもある。
この現実というものと、「自分の」という感覚、この二つがどうにもしっくり結びつかないために、社会や他人への関わりなり発言なりが、はっきりした力や方向をもったものになりにくい。


それは、ほんとうに深刻な状況に置かれていないからそう言っていられるだけで、この社会のなかで現実にたいへんな困難に直面して生きている人たちは、みな自分の生死を現実のなかで切実に意識しているものだ。そう考える人は多いだろう。
だが、そうした見方はどこか要点を外していると思う。
現代の社会では、多くの人々は、自分の生死を、どこか自分のものと考えられないままに、生きて苦しみ、そして死んでいくのではないか。つまりその人たちは「苦しむ」が、その苦しみを自分のものとは考えられないままに死んでいくのではないか、ということである。


『記号と事件』という本のなかで、ドゥルーズは、『ナチス強制収容所は私たちの心に「人間であるがゆえの恥辱」を植えつけた』というプリーモ・レーヴィの言葉から受けた感銘を語っている(河出文庫版 345p)。そしてそれは、現代の消費社会、情報化社会に生きるわれわれ自身の「恥辱」なのだと言う。
「人間であるがゆえの恥辱」とは、どんなことだろうか。
アウシュビッツは終わらない』でレーヴィが語っていることから受ける、もっとも強い印象は、人間にはどんな困難のなかでも人間性や尊厳を手放さないことが可能であるということではなく、人間性や尊厳が、ある環境のなかでは確実に破壊されるものであるという圧倒的な事実、そのことを語り手が自分自身のこととして知ってしまったことからくる、回復不能なほどの無力感である。
ある種の工学的な仕組みによって、人間の生を「自分」というものから切り離してしまえることが、アウシュビッツの出来事によって明白となった。つまり、人間の生がたんなる工学的な対象でありうるということが明らかになった。
それは、「人間」や「主体」からの生の解放などということではなく、社会の支配的な装置のなかへの生の全面的な隷属を意味するものとして、人々の心をとらえた。
「人間であるがゆえの恥辱」とは、まさにそのことなのだ。


人々の心に回復不能なほどの「恥辱」を刻みこみ、その力によって屈服と隷属を強いるこの仕組みと効果とは、歴史上のあるときに、突然現われて消えたわけではない。
その仕組みとは、産業社会、消費社会、管理社会といった形で、現在に受け継がれる大きな機構に他ならないからである。
その仕組みのなかで、ぼくたちは生まれ、今も、これからも生きる。
ドゥルーズが言っているのは、そのことだ。


生きられる現実を「自分の」生として感じることができず、それゆえに社会的な行動や関係から切り離されて生きるということは、(アウシュビッツ以後の、とあえて言おうか)現代の人間の生のあり方の、ひとつの典型を示すものだといえる。
その意味は、生まれたときから、ぼくたちはそのような生存のあり方を強いる力の働きを受け続ける、ということだ。「怒る」ことや、「語る」こと、「感じる」ことさえ、「自分の」ものとしては容易ではない。それは、いつも、幾分か借り物のようなのだ。
むしろ、われわれが生きている「現実」、われわれが身を置いている「悲惨」の核心は、そのこと自体であるとさえいえる。つまり、自分の生から切り離されたまま、生きて死んでいくのだ、ということ*1


だがそのことは、ぼくたちの生存が、その力の働きの枠内に、どこまでも限定されているということを意味するのではない。
そのなかで生きている現実を「自分の」生としてとらえる感覚が薄いとしても、「自分の」ということと、この現実とを結びつける、それ(「自分の」という言葉)以外の、それ以前の絆みたいなものが見出される可能性があるからだ。
レーヴィは、収容所のなかで「人間」としての生の輝きを奪われ、失った人たちの群れを「ムーゼルマン(回教徒)」と名づけて否定的に描いたけれども、そういう「非人間的な」生の形態のなかにこそ、失われていない他人との関わりの可能性のようなものが、「回復」ということではなく、はじめて見出され獲得されるということがありうると思うのだ。
ぼくのような人を含む、現在の世界の、社会からこぼれ落ちたようなさまざまな人たちの生の営みは、その可能性の側から光を当てて見られるべきだと思う。


*1:付言すると、「ひきこもり」と呼ばれる対処は、そうした社会的生存の従属的な本性に対する、個人としてのぎりぎりの抵抗、少なくとも防御反応のようなものに思える。