『マイ・アーキテクト  ルイス・カーンを探して』

何があったのか、ナナゲイは座席が新調されていて驚いた。


この映画は、人にすすめられてみたのだが、たしかに色んなことを考えさせられる作品だった。多くの人に見てほしい映画である。
ルイス・カーンという人は(ドイツのゴールキーパーではなくて)、たいへん有名な建築家であるらしい。世界中に独創的な多くの建造物を作った人だが、30年ぐらい前、駅のトイレでちゃんとした身分証も持たずに行き倒れになって死んでいるのが見つかった。破天荒な生き方をした人である。
この映画は、その息子であるナサニエルが、世界各地のその建造物をたずねながら、父とゆかりのあった人たちの証言を聞き、亡き父の実像に迫ろうとした姿をとらえたドキュメンタリーだ。


というのは、この息子は、幼いころから父と別居して暮らしていて、父のことをほとんど知らないからである。それはなぜかというと、カーンは三人の女性との間にそれぞれを子どもを設けていた。正式に結婚した相手以外の二組の母子とは、別々に暮らしていたわけだ。
これらの女性は、終生ずっとカーンのことを深く愛し、子どもとともに、ずっと独身で生きた。カーンがいつか、自分たちのところに来てくれることを願いながら。
こういう場合、ぼくは自分が男なので、どうしても女性の存在を「対象」としてしか見ないところがある。実際には、女性には女性の欲望というものがあり、彼女たちはそれに根ざしてカーンを愛し、そういう人生を選んだということだろう。
こういうことは、子どもにはとくに受け入れることが難しい。ナサニエルも、父ばかりでなく、そういう母親の人間としての生き方にも、正面から向き合うことになる。


その三組の家族の息子、娘たちが、一同に会する場面がある。
そのなかで「自分たちは家族なのかな?」という問いかけに、「家族だったらどうなの?」という反問があった後、「お互いを気遣うようになったから家族だ。父が同じだから家族だというのは、意味のない考えだ」という言葉が出てくる。
家族とはなにか、ということを考えさせられる場面である。


カーンは、独創的で芸術家肌であり、施主と妥協せず、自分の作りたいものだけを作り続けた。天才であり、カリスマとしての魅力に溢れていた反面、自分の家族だけでなく、従業員やその家族の私生活も犠牲にして省みない面があったらしい。
それだからこそできたことは大きいのだろうが、犠牲になった方はたまらない。


また、カーンはユダヤ系であったが、そのことを息子には隠していた。後年、彼はエルサレムに大きなユダヤ教会を立てる仕事に情熱を傾ける。そこを訪れたナサニエルが、父と自分の民族性を考える場面も出てくる。
また、カーンは幼いころの火傷がもとで、顔に深い傷跡が残った。どうもそのことが、彼の性格や建築の特徴に影響を与えているのではないか。
そういうことも考えさせるような映画になっている。


だいたい、人間はなんであんな巨大な建造物を作ろうとするのか。また、そこに哲学的な意味なんかを見出そうとするのか?小さくても、家族が暮らす木造の家のほうが、よっぽど大事じゃないのか。
人間の生命は有限でも、巨大な建造物は時代を越えて残っていく、みたいなことがよく言われる。この映画の登場人物たちもさかんにそんなことを言う。
幻想だ。戦争や暴力や天災によって、そんなものは簡単に破壊される。破壊されなくとも、そこに人間の営みが関係しないのなら、それらのモニュメントはたんに空虚で無意味だ。
でももしかすると、そのこと自体に、建築というものの意味はあるのかも知れない。


この作品の白眉は、ラストに訪れる。
カーンは晩年、世界の最貧国のひとつといわれるイスラム教国、バングラデシュに巨大な国会議事堂を作った。それはこの国の、民主主義の象徴であり、人々の希望の拠りどころとなったともいわれる。
さっきユダヤ寺院のことを書いたが、カーンは自分の出自に深くこだわったわけではない。「彼は遊牧民だった」という台詞が出てくるが、仏教でもイスラム教でも、求められれば世界のどこにでも行って仕事をした人である。金のことはまるで考えなかったので、晩年には破産状態だったらしい。
この国会議事堂も、彼の採算を考えない情熱と努力のおかげで建てることができた。
映画の撮影をしているナサニエルに、バングラデシュの建築家が、目を充血させながら語る言葉は、熱く深い。


あなたのお父さんは、私たちに希望と民主主義をもたらしてくれた。この建物は、彼でなくては作ることができなかっただろう。彼は経済的なことを考えず、情熱を傾けてくれたのだ。この議事堂は、頼まれたら断れないという、彼の性格をよく示している。
彼はほんとうに偉大だったが、それでも一人の人間だったから欠点はある。大きな理念のために家族を犠牲にしてしまう人間というのは、つねにいるものだ。どうかそれをわかって、お父さんを許してあげてほしい。
彼は、私たちを愛してくれた。その愛は、あなたたち家族にたいする愛とは少しだけ違って、完全であったけれど。


だいたいこういう意味のことを言っていたと思う。
この言葉は、大きな理想や「愛」のために、家族に犠牲となることを強いる言葉、耐え忍ぶことを要請する言葉ではない。たしかにそうも聞こえるが、本質はそこにはないと思う。
「頼まれたら断れない」というような弱さや愚かさをもった一人の人間としてあなたのお父さんを認め、肯定してあげてほしい。なぜなら、あなたのお父さんは私たちを愛してくれたのだから。
このバングラデシュの人は、そう懇願しているのだ。


子どもが親を認め、乗り越えるということは、きっとそういうことなのだろう。
民主主義という理念や、モニュメントや巨大な建造物に意味があるのではない。
そういう、もしかすると空虚なものを「不朽」や「普遍」であると信じ、「頼まれたら断わること」ができないまま、周囲を犠牲にしてまで情熱を傾けてしまうような、愚かな弱い存在。「父」や「母」という役割ではなく、そういう生身の存在として、人を認め許すこと。
人が人とともに生きていくということのほんとうの意味は、そういう身近な、でも実践することがたやすくはない寛容のなかにこそあるというメッセージを、あのバングラデシュの人は、カーンの息子の胸に届けたかったのではないだろうか。
少なくともぼくには、そのように響いた。


大阪十三の第七芸術劇場で上映中。
一回書いた文章を全部消してしまって気が狂いそうになったが、どうにか気を取り直して書き直した。